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Thursday, January 27, 2005

アメリカ・インディアンとエコロジー

メリカ・インディアンの世界観の基礎のところに常にエコロジーがあるらしいと文明社会が気がつきはじめたのは1960年代以降である。70年代になって「虹の戦士の予言」にインスパイアされる形で行動的環境保護グループのグリーンピースが創設されて以来、あたかもネイティブの人たちを「エコロジーの戦士」のように見る人たちも登場する。反面インディアンの文化に関心のある人のなかには、ネイティブの人たちがエコ戦士として扱われるのを苦々しく思っている人たちも多い。「俺がインディアンを好きなのはそんなことのためじゃないよ」と彼らはいう。「で、あんたはいったいどう考えてるの?」

環境に対する意識の高まりとともに西洋文明社会がネイティブの人たちの世界観のなかのエコロジーの部分に敏感に反応したのはある意味ではもっともなことではあるだろうが、しかしそのふたつには大きな、そして決定的な違いがあると、わたしは考えている。エコロジー(生態学)から自然保護の運動に入った科学的な思考の持ち主たちは大多数が地球を「無機的な物体」としてしか見ていないけれど、インディアンの人たちにとってはそれは「物体」などではないからである。

kokoホピの長老が平和宣言のなかで「聖なる知識」として伝えているように「地球は生きている女性」「いのちを持った存在」である。これはけして例え話なのではない。パワー・トリップをする西洋文明にずっぽりと浸かっているホワイト・マインドな(白人的思考の)人にとっては「母なる地球」という言葉は、もしかしたら「よくできたほんの少し感傷的な広告のコピー」程度のものなのかもしれないが、インディアンにとってはそれがそのまま受け入れられている考え方、世界の見え方なのである。地球というのは、その上に存在するすべての生命を生みたもうた母親なのだ。わたしがローリング・サンダーというひとりのメディスンマンから受けた教えのなかで最も大切なものも、それであった。「地球は物ではない。それは生きていて、わたしたちと同じように、いろいろ考え、感じ、喜び、悲しみ、そして時には病気にもなる。そして地球は自然を通してわれわれに話しかけている」ということである。こうした認識を生まれて以来持ち続けて育つネイティブ・ピープルにとっては、自然にあるものもまたことごとくすべていのちあるものなのである。石だって生きているし、山も生きて呼吸しているし、木も、草も、鳥も、動物も、虫も、人間と同じように生きているのである。そうしたいのちあるすべてのものが全体としてひとつの円環の中の自分の場所に収まって調和しているのが、彼らにとっての地球の実相なのである。だから、その大きな輪のなかで、それぞれに場所を得てそこに存在するひとつのいのちに起こることは、当然他のすべてのいのちに影響することになる。全体を形作っていた部分のほんの少しが変化しただけでも、それが引き金となってすべてが影響を受けざるをえないのである。わたしたちがもう一度地球の声を聴けるようになるためにはなにを学べばよいのだろうか?

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