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Tuesday, January 18, 2005

なぜ人びとの言葉は違ってしまったのか?

※このお話は2004年の6月から7月にかけて「そしてひとびとは違う言葉を話すようになった」というタイトルのもとに10回に分けて連載したものをまとめたものである。今回全体をひとつにするに当たって再度手を加えたほか、過去に分載した記事を当ログより削除したことをお断りしておく。

これからお聞かせするのはイロコイ六か国連合を構成するセネカ(SENECA)のと呼ばれる国の人たちに伝えられた「ゴダショーの伝説」の一部である。「ゴダショー」とは「有名な女性のチーフ」の名前で、この物語を最初に文字に書きとどめたのはJ・N・B・ヒューウィット(J.N.B.Hewitt)という同じイロコイ六か国連合のなかのタスカローラ出身の人類学者で、1896年に出版された『セネカの物語と神話と伝説』(ジェレマイアー・カーティンとJ・N・B・ヒューウィットの共編著)という本のなかにこのティーチング・ストーリー(教えの物語)も収録されている。その後もこの話はセネカの人たちのあいだでは口頭伝承によって語り継がれて、細部においては最初に書きとめられたものとはだいぶ変わってきているようだ。今回のほん訳においては、ほんとうに伝えたかった物語のコアの部分以外は、わかりやすくするためにすこし手を加えた。

※セネカは五大湖のひとつであるエリー湖から流れ出す川に沿ってかつては定住していた。「セネカ」とは「石のひとびと」「石のある土地のひとびと」を意味するのだといわれている。

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るかなる昔、地球がまだ若かったころ、ひとびとはみなただひとつの言語を用いて話をしていた。その当時のひとびとの暮らしは平和そのものであり、調和も保たれていた。ひとびとは持っているものをなにからなにまでみなで分けあっていたし、必要なものは必ず誰かが持っていた。ひとびとはみなの畑でトウモロコシと豆とスカッシュを育てていた。森に分け入ってはみなのために獲物を狩猟した。ひとびとは母なる地球に、食物を与えてくれる植物たちや動物たちに、そして自分たちをふくむそうしたものたち一切をお創りになり、しかも豊かな恵みを与えてくださる偉大な存在にたいして、常に感謝を忘れることもなかった。

そんなある日のこと、川幅の広い川の川辺にあったとある大きな村での話だ。その村のチーフはひとりの女性だった。賢く、寛大な心の持ち主で、彼女は自分の一族の者たちが、平和で調和のとれた暮らしを営むために必要なことはいやがらずになんでもやってきた。彼女に従うひとびとの数はいや増しに増してゆき、やがて村も幅の広い大きな川の両岸にまたがるぐらい大きくなっていた。しかしその当時は、ひとびとはまだ舟というものの存在も使い方も知らなかった。だから人の往来にはみなで作った丈夫な橋を使っていた。木々や、木の枝などを大量に集めてきてはそれらを組みあわせ、織りあわせたりしたもので作りあげたつり橋で、ひとびとはそのうえを歩いて東岸から西岸の村へ、また西の岸から東岸の村へと自由に行き来をしていた。

もともとは大きな川の東岸にできた村だったが、人口が増えて西岸にもひとびとが暮らすようになり、とくにその西岸の村で毎晩のようにダンスがおこなわれるようになってからは、橋を使って行き来するひとびとの数も増えた。ダンスがおこなわれてひとびとが集まるようになると、当然市もたつようになる。その頃はまだ物々交換で、森から収穫した毛皮やさまざまな薬草などを持ちよるものもあれば、畑でとれたトウモロコシを乾燥させたものや集めた野いちごを持ちよるものもいた。

ひとびとは誰かにあげたり交換したいと思うものを思い思いに持ちよった。しかしみながみな交換できるようななにかを持ちよれるとは限らなかったのである。たまたま市のなかで自分の欲しいものを見つけたのに、交換できるようなものを何一つ持っていない時には、ひとびとはただひとこと

「兄弟、わたしにはそいつが必要なのだ」

とか

「姉さん、それをすこしわたしに分けてくれませんか」

と言いさへすればよかった。そうすれば欲しいものはなんであれ自分のものにすることができたのだった。


る日のこと----そうまたある日のことである----なにかが、起きたのだ。(なにかが起きるのは、ずうっと昔からある日のことときまっている)その当時、ひとびとは犬をたくさん飼っていた。女チーフのゴダショーも、家に白い小柄な犬を飼っていた。チーフの家は大きな川の西岸にあり、その白くて小さな犬はお母さんとして仔犬を生んだばかりだった。飼犬に子供たちが産まれると、その仔犬たちも当然ながら母犬の属する家族の一員として扱われる。もし家族以外のものがそうした生まれたばかりの仔犬たちのあどけない姿を見て、ひと目で気に入り、譲り受けたくなったときには、普通はそのように申し出ればよいことになっていた。

だがしかし、このときにはなにかが違っていたのだ。枯れ草や葉っぱを敷き詰めた仔犬たち用の寝箱をのぞきこむと、仔犬たちが全部で四匹。すべてが雄で、みな母さん犬のようにまっ白な毛をしていたのだが、なかの一匹が他の兄弟たちとは際だって様子が違っていた。その一匹だけ、なぜか両方の目のうえに黒い斑点がひとつずつあった。右左の目のうえに、まるでもうひとつずつ黒い目があるかのように見えた。

四つの眼を持つ犬は古来から賢くて、できが良いと昔から言い伝えられていた。普通の目のうえにあるもう一対の黒い斑点が目となって世界をはっきりと見てとれるので、そういう犬は優れた猟犬となり、生まれついて犬たちのリーダーになる運命にあると信じられていた。その四つの眼を持つ仔犬があまりに特別な存在だったので、女チーフのゴダショーも、その犬だけば自分で飼う腹づもりでいた。そしてそのことがトラブルを運んできた。

大きな川の西岸に住む人たちが、自分たちのチーフが家で飼っているその特別な犬について、あることないこと自慢そうに声高に話すようになったのは、それから間もなくのことだった。

「あれだけの犬はどこにもいないよな」

みなは口々に言いあった。

「そうよ、東岸の家になんか、われわれのチーフの家にいるような特別な犬を飼っている人間など、いるわけがない」

人々は鼻高々で自慢した。

川をまたいで両岸に生まれつつあったその大きな村落で、そうした自慢話が広まるのはそれがはじめてのことだった。じきにその大きな村落の人々のなかに、別のあるものが見られるようになった。そのあるものとは「ねたみ」「嫉妬」「羨望(せんぼう)」であった。川の東岸に暮らす人々のあいだに、その特別な犬と暮らせる川向こうの姉妹たちや兄弟たちをねたむ気持ちがじょじょにだが広まりはじめていた。


チーフのゴダショーはなるほどとても賢い人物ではあったのだけれど、はじめのうちはいったいなにが起きているのか見当もつかなかった。しかしある日のこと、同じ西岸に暮らす何人かの人たちがまとまって彼女のもとを訪れてこういった。

「実はたいへんに気がかりなことがありまして。川向こうの悪い連中がわたしたちの四つ目犬のことでよからぬ話をしているのです。むこうへさらっていく計画があるとかないとか。わたしたちの犬を守るためには、戦いの準備をしなくてはなりません!」

ゴダショーはショックを受けた。自分の一族の者たちがふたてに別れて戦いをするだなんて、いったいなんでそんなとんでもないことが起きてしまったのか。だが女チーフがそう考えたときには、すべてはもう手遅れだった。

すでにひとびとのあいだには、関係の修復ができないぐらい決定的な溝がうまれていた。彼女は東岸の人たちに四つ目犬を連れていくようにと差し出すことすらも考えたほどだった。だがそうすると今度は、西岸の人たちのあいだで嫉妬やねたみが沸騰することになるだろう。どう考えても、それは間違いのないことだった。

大きな川の両岸の村では、互いに相手の動きをにらみながら武器の製作がはじまっていた。女チーフは決断の時がきていることを知っていた。動かねばならない。彼女は西岸に暮らす人たちを一堂に集めた。

ひとびとの顔を眺め回してから女チーフがおもむろに口を開いた。

「橋を壊しなさい」

ひとびとは彼女にいわれるまま火を放って橋を焼きおとした。目の前の橋がなくなることで、ひとびとははっきりと西と東の二手に分断されてしまうことになった。だがゴダショーには、いずれまた別の橋がつくられて、争いが再発するだろうことがわかっていた。

「われわれはこの土地を離れなくてはなりません」

樹や枝が燃えながら大きな川に落ちて水面を流れ去ってゆくのを見つめていた女チーフが、なにかを思いついたのか、顔を起こしてそう言い放った。彼女はひとびとに樺の木から大きめの樹皮をたくさん集めてくるように伝えた。一族の者たちはそれまでも樺の木の樹皮を縫い合わせて籠(バスケット)を作ったり、料理にもちいる鍋を作ったりしてきた。

canoe樹皮が集められると、それらをバスケットや鍋と同じように縫い合わせるように命じられた。さらに、水がはいらないように、念を入れて縫い目には樹脂が塗りこめられた。そしてそうやって最初のカヌーができあがった。ひとびとはいくつもの小さなカヌーを作りあげたばかりか、さらには特別に大きなカヌーも二艇完成させた。西岸に暮らす人たち全員がひとり残らず乗り込めるだけのカヌーがかくしてそろえられた。

準備はちゃくちゃくと進められた。平和と調和を求めて新しい土地を探す川の旅がはじまろうとしていた。だがひとびとがカヌーに乗りはじめるとすぐ、また別の問題が降りかかってきた。自分たちのチーフと四つ目のお犬さまに乗っていただくお召しカヌーをどれにしたらよいかで、ひとびとのあいだでけんけんごうごうの口論がわきあがったのである!

いさかいはいつ果てるともなく続いた。

やれやれ、このような言い争いはいつまでたっても終るわけがない。コダショーはうんざりした。いいかげんにしてくれという思いだった。疲れがおそってきたばかりか、悲しさまでも込みあげてきた。だが、彼女はそこであることを思いついた。

「横に並べた二艇の大きなカヌーのあいだに長い苗木を幾本も渡して縛りあげなさい。そうしたら、カヌーとカヌーのあいだにわたしと犬が乗れるだけの台ができます。それならばわたしたちはどのカヌーに乗ることにもならないのですから、誰も焼き餅をやくこともなくなるでしょう」


いうわけでカヌーの船団は出発にこぎつけた。平和と調和を求めて。だが、なんとかうまくことが運んだのは、しばらくのあいだだけだった。平和と調和も、川の流れの行く手がふたつに別れている地点までしか続かなかった。流れが二手に別れる分岐点で、再び、ひどびとがけんけんがくがくの口論をはじめた。左右に並んでつなぎあわされた二艇のカヌーのうち、右側のカヌーに乗る人たちは東にむかう流れを進みたがった。ところが左側のカヌーに乗っていた人たちは、もう片方の西側に向かう水路をとることをかたくなに主張してゆずらなかった。

ゴダショーはカヌーどうしのいさかいを止めようとしたが、どちらのカヌーの人たちもまったく耳を貸そうとはしなかった。それぞれのカヌーの人たちはめいめいが勝手に自分たちの行きたい水路に舳先(へさき)をむけて漕ぎはじめた。女チーフとその犬の乗る台を間にのせた二艇のカヌーは、それぞれ先頭の漕ぎ手が他の漕ぎ手に大きな声をかけながら、一艘は東に、もう一艘は西にむかって懸命に進みはじめた。二艇のカヌーが押しあいへしあいしつつ競いあって、一方が他方をしたがわせようと必死になっているうちに、やがてゴダショーと犬を乗せた台がきしみはじめた。やがてバリバリバリバリッと音をたてて、二艇の大型カヌーをつないでいた木々がはずれ、あれよあれよというまにゴダショーと犬はそのまま川の流れに落ちた。

ひとびとはそれぞれのカヌーから身をのりだして川の中を探し求めた。だがいくら川のなかをのぞき込んでも、自分たちのチーフとあの犬の姿はどこにも見つけることができなかった。チーフと犬がいるはずのところには大きなチョウザメが一匹と、小さな白い魚が一匹いるだけだった。ひとびとが驚いたように息をのんで見守るなか、チョウザメと白い小魚は体をひるがえして、いずこへかと泳ぎさってしまった。

やがてひとびとがわれをとりもどし、口々になにがおこったのかを話しはじめた。

だがそのときにはもう、それぞれがなにを話しているのか、互いを理解できなくなっていたのだ。右のカヌーの人たちは、左のカヌーの人たちの話す言葉を理解できず、左のカヌーの人たちは右のカヌーの人たちが話している言葉ができなかった。ねたみと口論がひとびとのあいだを切り裂いてしまっていた。同じカヌーに乗っているもののあいだではかろうじて話しは通じるものの、別のカヌーのものたちとは言葉がまったく違ってしまっていた。

さよう、ひとびとはまさにあそこではなればなれとなり、それぞれがそれぞれのカヌーに乗って旅を続けるようになった。以後、川の行く手がふたつに別れているところまで来るたびに、ひとびとは分裂を繰り返し、そのたびにこの世界には新しい言葉が増えていった。そしてその川の旅は今もなお続いている。

 (おわり) 

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※追記○セネカは伝統的にストーリーテリングの豊かさで知られている部族で、彼らの物語には印象に残るものがいくつもあります。インターネットで探してもたくさん見つかるはずです。もともと口から耳へと伝えられたそうした物語は、語るたびに少しずつ新しい要素が加えられたりして、いくつものおなじような物語が広まっていきます。今回紹介したゴダショーと四つ目犬のお話も、この話の別のバージョンが以下の「ネイティブ・アメリカンの神話」というサイトに、出典不明として「女チーフのゴダショー(Godasiyo the Woman Chief)」というタイトルで掲載されていました。やさしい英文で、状況の説明がもう少しこまごまとくわしいので、興味ある人はあわせて比較してお読みください。こちらの方では、北米インディアンがいくつもの部族に別れて、それぞれがみんなことなる言葉を話すようになった理由として、この話がしめくくられているのですが、わたしは、これはそのまま「地球に生きる人たちの物語」だと理解しています。今もなおひとびとは平和と調和を求めながら分裂をくり返しているのですから。

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