でも、なぜ?
昨年の秋に「日本国の米どころ」で大地震が起き、年末には南アジアで巨大地震とそれに伴う大津波が発生して以来、今年になってもなお、いったいなにがこの惑星地球で起きているのかを考え続けている。それは「自然災害」、あるいは「天災」としかいいようがないものなのだが、なにがやりきれないといって、たくさんの罪もない人たちが、それも特に子供たちが、命や全生活を失ってしまうのをあからさまに、ショッキングな映像として見せられることに、悲しみ以上のものを覚えるのは、自分だけではないだろう。そのうえ、生きていく力を失ったそうした人たちのわずかな財産を狙う泥棒があとを絶たず、さらには孤児となった子供たちを異国に売り飛ばそうとする輩が跋扈(ばっこ)しはじめていることには、あきれるというか、怒りすらこみあげてくる。
われわれの暮らすこの世界が混乱の極みにあることは間違いない。あらゆる価値が崩壊していっているようだ。この地球でとてつもない自然災害が起きて無数の人命がほんの一瞬のうちに失われてしまったのは、いったいなぜなんだろう? その災害が起きた南アジアの近くの中東では戦争が今も続いていて、毎日千人ほどの人たちが、敵や味方の爆弾や地雷や処刑の名のもとに命を落としていっているのは、いったいなぜなんだろうか?
政治家や科学者やジャーナリストたちなら、集めることができるさまざまな事実関係のデータや証拠を使って、今起こっていることについてのそれなりの理由を述べてくれるかもしれない。事実そうした「解説」をしてくれる人たちがテレビの中にはあふれている。しかしいくらそうした人たちの話に耳を傾けても、最後には必ず「でも、なぜ?」と自分に向かって問いかけているおのれの姿を僕は発見する。いったいぜんたい、なぜなんだろう?
●文化的・精神的な観点から
このような種類の災いが起こることについては、政治的・科学的な視点以外にも、文化的な、そしてスピリチュアルな観点から説明することも可能である。アメリカ・インディアンの文化に詳しい人なら、まっさきに「浄化の時」という言葉を思い浮かべるだろう。「地球に生きる人」とわたしが呼ぶ、先住民的な世界観を保ち続けてきたネイティブ・ピープルは、人間は自然と、そして人間同士で、いかなるときも調和を保ちつつ生きなくてはならないという先祖伝来の教えを大切にしてきている人たちである。彼らは「地球とそこに暮らすいっさいの命あるものたちを敬わなくてはならない」と言い続けてきた。
そしてこうした教えや警告をないがしろにするようになったとき、われわれの目を覚まさせ、われわれが正しい祈りをあげていなかったことや、正しい生き方をしていないこと、生き残るために欠かせない大地と水と空気に対しするいい加減な扱いや、地球を尊ばなくなっていることを気がつかせるために、「おそろしいことが起こる」とされてきた。ネイティブ・アメリカンの長老たちが長いこと言い続けてきたこと、わたしに道を指し示してくれた今は亡きローリング・サンダーが世界に必死に伝えようとしていたことは、まさしくそのことであった。そうした教えの数々は、いまだに耳を傾ける価値を持っている。おそらくそれは「真実」なのかもしれない。
これはなにも今回の巨大地震とそれによって発生した大ツナミの被害を受けたところにだけ当てはまるのではない。日本列島において地震や洪水の被害を受けた土地の人たちだけに当てはまるもののでもない。「警告」はすでにさまざまに形を変えて地球の各地に示されてきている。干ばつに襲われるかもしれない。原因不明の病で人びとが倒れはじめるかもしれない。さまざまな動物たちが姿を消しはじめるかもしれない。大地が、母なる地球が病んでいるのである。彼女は息も絶え絶えになにかを伝えようとしている。
おそらく今という時は、われわれがもう一度「地球に生きる人たちの伝統的な生き方」や「祈りの仕方」「祈りの歌」を思い出し、学びなおす時なのだろう。そのときがきているのだ。ネイティブ・ピープルとされる人たちがそうしたものを今日までしっかりと守り続けてきたのには当然ながら理由がある。ラコタの希有なメディスンマンだったレイム・ディアー翁は「そのときこそアメリカ・インディアンの出番である」と語っていた。わたしたちは彼らが守り続けてきたものを学び、その力を取り入れることで、自分の中で長く眠りこけている「地球に生きる人」を覚醒させなくてはならない。
●今はなにをするべきなのか?
大きな地震や台風や竜巻、洪水、津波などの自然災害が起きるたびに、地球に生きる人たちはいつでも自分に「なぜ?」と問いかけてきた。彼らはすべての天変地異に「理由」があることを何となく知っている人たちなのである。彼らの世界認識においては、理由なく起こることなんて、実際なにひとつないのだ。もちろん彼らがそうしたことが人びとを襲った理由を事細かにすべて説明できるとは思わない。しかしそうした時に人びとがいかに考えてなにを行動に移せばよいのかについてのある部分は、耳を傾けるに値すると思われる。
自分がコントロールできないようなことを心配するのには意味がないことぐらいわかってはいるつもりなのだが、それでもなお自分の子供や、まだ見ぬ孫たちが、未来の世代たちが、いったいどんな世界で生きていくことになるのかについては心配せずにはいられない。心ある人たちが考え得る「完璧な世界」においては、戦争や災害などどこにもなく、ひとびとは互いに助け合って生きていて、あらゆる病気や怪我には相応の治療法があるのだろうが、しかしそれはそれでひとつの大きな夢である。
それでもなお、わたしは、次の世代が今よりも暴力の少ない世界で生き、それぞれの個人が人間として尊ばれ、見下げる存在も、見上げる存在もなくなり、安全に、安心して生きていけるような世の中になることを願わずにはいられない。そうした世の中が好ましいと考える人はたくさんいるかもしれない。でもそのためには、今のこの混乱した世界の中でもそちらに向かって歩きはじめなくてはならない。母なる地球とすべてのいのちを敬うために、いっしょうけんめいに正しく生き、祈り、祈りの唄をうたいつづけることが、ただひとつの道なのだろう。今は世界のすべての人たちが、まずは自分で直接大地に触れて、そこで生きるとはいかなることなのかを深く考える時なのだ。
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スリランカ・ヤラ国立公園の動物達の屍骸は見つからず、インドネシア・シムル島では、住民約6万5000人のうち津波による死者は、3日までに6人にとどまっている。「海水が引いたら次には必ず大きな波が来る、という教えが昔からあり、住民らはこの言い伝えに従い、水が引いた時、すぐに丘へ避難したという。
北山さんの言う、<われわれがもう一度、学びなおす時なのだろう>という言葉に我々は何からはじめればいいのだろう。
Posted by: janleno | Wednesday, January 05, 2005 11:08 PM