ネイティブ・アメリカンのクリスマス
ネイティブ・アメリカンの間にヨーロッパスタイルのクリスマスが広まったのは、当然ですがヨーロッパ人がアメリカに大挙移住するようになってからのことです。ヨーロッパからの渡来人たちは先住民であるインディアンたちにキリストの教え、贈り物をする風習、それから聖ニコラスのことなどを伝えました。今ではインディアンの人たちは、宗教を巡って大きくふたつのタイプにわかれています。ひとつがいわゆる「伝統派」で、多くの場合はリザベーションで生まれて育った純血の、俗語でFBI(フル・ブラッド・インディアン)と呼ばれる人たち。もうひとつのタイプが「現代派(コンテンポラリー)」とよばれる都市部で育ったインディアンで、多くが混血であって、ずぶずぶのキリスト教環境の中に生まれて成長した人たちです。
あらゆる宗教を敬う立場を崩さない(相手にも自分たちの宗教を敬うことを当然のように求める)伝統派のインディアンの家に生まれた子供たちは、キリスト教のスーパースターであり、彼らの認識では「最初のインディアンの精神的指導者」である人物を尊敬するようにしつけられて育ちます。彼らにとっては「ジーザス・クライスト」は遠くのへブライという部族の「赤い人・インディアン」として認識されていました。イエスは「星の人」であり、偉大なる精霊の化身だったのです。インディアンのジーザスは荒野でヴィジョンを探求し教えを獲得します。バプティストのヨハネ(ジョン)、モーゼ、そしてジーザスの前に現れて彼を全人教育の中で教え導いた偉大な師とされる人たち。キリストを「インディアン」のスピリチュアルリーダーと同一視する見方は、小生が翻訳した『インディアン魂 レイム・ディアー』(河出文庫 1998)という破天荒なラコタの聖者の生涯を書き綴った本の中にもおもしろおかしく書かれています。フルブラッドのメディスンマンだったレイム・ディアーによれば、「キリストさんは立派なメディスンマンだったかもしれない」そうです。また彼はこんなことも言っています。「ユダヤ人のキリストは絶対に黒い髪の毛をしていた。黒い髪の毛に浅黒い肌だ。ちょうどわしらインディアンのように」「白人はいつの間にかジーザスを金髪の男にしてしまって平気な顔でいる」(『インディアン魂 レイム・ディアー』)とも。
キリストをインディアンだと見た人たちにとっては、クリスマスはなにも特別なものではありませんでした。もともと毎日がクリスマスのようなものだったからです。すべての食事が聖なる食事(聖餐)でした。彼らは食事のたびにその一部をスピリットの世界に捧げてきました。4本の足を持つ人たちのために、翼を持つ人たちのために、足の2本ある人たちのために。祈りのあげ方は、いわゆるキリスト教信者の人たちのそれとはだいぶ異なってはいましたが、それでも偉大なる父親たちやスピリットや守護天使たちに感謝を伝えることは欠かしませんでした。伝統的なインディアンの暮らしは、さながら天使たちが地上で生活しているようだったという人たちも少なくありません。天使の道はそのままインディアンの道、インディアンの生き方でした。彼らはいつでも手を差し出して病んでいるものや弱いものを助け、助けを必要とする人たちに力を与えてきました。貧しい人たちには食事や着るものを与え、もらう心のなかにではなく、与える心の中に神がすんでいることを信じて生きていました。
伝統的な生き方をしてきた家の子供たちは「もともと自分たちにはたくさんのものが与えられている」と生まれ落ちたときから教え込まれて育ちます。創造主はわたしたちにすべてのものをくださったのだと。水も、呼吸する空気も、母の体としての大地も、エネルギーとなるさまざまな力も、そしてなによりもハートも。そのすべてが創造主から彼らに与えられたものでした。だから当然日々の暮らしは感謝に満ちています。毎日が感謝の連続なのです。
朝、日の出の前には起き出して彼らは朝の星に向かって祈りました。夕暮れ時には夕空に輝く宵の星に向かって祈りました。この宇宙に存在するすべてのいのちでつながっているものたちのために祈りました。そしてまったく同じように、偉大なる精霊の息子とされる人のためにも、彼らは「もう一度彼に命が与えられますように」と、祈りを捧げてきたわけです。
インディアンの人たちにとっては毎日がクリスマスの連続です。なにも言わずになにかを自分のものにするなどということは考えたこともありません。薬草を集めるときでも、収穫する前に必ず根を持つ人たちに向かって祈りをあげ、彼らに必要なだけを刈り取る許可を直接もらいます。そして感謝のあらわれとしてタバコを捧げます。薬草を採取するときには、絶対に根っこごと地面から引き抜くようなまねはしません。地面から出ている部分を切り取るだけです。そうすればまた根のある地面の中から新しい世代が生まれてきて育つのですから。
こうした伝統的な生き方が失われることは大変な損失だと思われます。一年に一度クリスマスを祝うだけでなく、毎日クリスマスが連続して続いていくような伝統的な生き方。かろうじて残されている伝統派とされるネイティブの人たちは、今日もなお、エルダーたちや弱い人たちに食事や着るものを与え続けていますし、ものを与えることを喜びとした聖ニコラスを讃え続けています。伝統派のネイティブの家庭ではプレゼントについてこう教えるそうです。「贈り物をもらうのは喜びをもらうこと。だから喜びがなくなったときにはそれを他の子供たちに回してあげなさい」と。ひとつのお人形さんが、さまざまに修理の手を加えられながら、一年に8人の子供たちをつぎつぎと喜ばせることもリザベーションでは珍しいことではありません。
インディアンの国では、毎日がクリスマス。日々の暮らしのその真ん中に、「与えることの精神」がしっかりと根をおろしています。そしてそれがインディアンの道、赤い道を歩いていくことだとされるのです。インディアンの道というのは「自分のする行為をなんであれスピリチュアルものとしておこなうこと」を意味します。もしあなたが持っているもので使っていないものがあって、近所にそれを必要としている人がいたときには、与える精神の名のもとに分け与えてしまえばよいのです。たとえその日がクリスマスであろうとなかろうとも。ひたすらに持っているものをみんなで分ける。そうやって分ければ分けるほど、わたしたちはスピリチュアルな存在になれるのだと、伝統派の聖なる人は語っています。
キリスト教の信者であろうとなかろうと、それはまさしくジーザスの意識で生きるということを意味しています。クリスマス・プレゼントの一番深いところにある教え、それこそが与える精神のすばらしさです。年に一度のクリスマスを楽しく過ごすときにも、インディアンの国では毎日がクリスマスだったということを、忘れないようにしたいものですね。
Wish You Have A Very Native Christmas!
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