学ぶということ
前回の「インディアンはニート」の論考において「職業訓練と教育と生き方はみっつでひとつ」と書いた。失われつつある前の世界においてネイティブ・アメリカンとして生まれた子供がどのように育ったのかについては『アメリカ・インディアンに学ぶ子育ての原点』(エベリン・ウォルフソン著 北山耕平訳 アスペクト刊 2003年)にわかりやすく詳しく書かれているので参考にしてほしい。わたしは前の論考を書き進めながら、「学ぶこと」とは何かについて考えざるを得なかった。
自分が20年ほど前に今は亡きローリング・サンダーになにを学んだのかというと、ある意味でそれはとても簡単なことではなかったかと思う。簡単な教えというのは、「楽にできる」という意味ではなく、「シンプル」という意味である。シンプルであるがゆえに難しいことだって世界にはたくさんあるのだから。たとえば「真実を知ること」と「真実の意味を知ること」との違いのようなもの。このふたつは本来同じことでなくてはならない。真実の意味することが真実なのだ。
学びについて思い出すエピソードはこんなものだ。あるとき何人かと一緒に野営地で食事を終えて、彼が火のそばでこう言ったことがある。手にはわれわれが集めてきた薪の中のひとつを持っていた。「これは、なんだと思う?」と彼が聞いてきた。「薪です」とこたえると、彼はことさらに悲しそうな顔をして、がっくりと肩を落として黙り込んだ。そのまま薪を手にして火をのぞき込んでいる。こっちももう少し考えてみて「木の枝です。木の一部」とつけくわえた。彼は少し顔を明るくした。「だいぶいい答えになった。ではいったいなんの木だ?」と重ねて聞いてきた。自分にはそのときにはそれが何の木なのか名前を知らなかったので黙っているしかなかった。その晩遅く、彼はみんなを前にしてこのような話をした。
「自然のなかには同じものはひとつとして存在しない。同じように見えるかもしれないが、同じ葉は二枚として存在しない。それぞれの葉が違うものとして認識できるようになったとき、人は木そのものを見ることができる。そして木そのものの本来の姿が見えるようになったとき、その人間の目には木のスピリットが見えるようになる。さらに木のスピリットが見えるようになれば、その人間は見えているスピリットに向かって話しかけられるようにもなり、そしておそらくその時になってはじめて、彼はなにごとかかを学びはじめるのだ。今夜はよく寝るように」
当然のことながらわたしはまんじりともしないで寝袋の中で満天の星空を見つめて夜を過ごした。
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