インディアンの次は
せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあったジョークは『インディアンは笑う』(マーブルトロン発行・発売中央公論社)に、改訂版が収録されています。どうか本でお笑いください。北山耕平 拝
せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあったジョークは『インディアンは笑う』(マーブルトロン発行・発売中央公論社)に、改訂版が収録されています。どうか本でお笑いください。北山耕平 拝
せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあったジョークは『インディアンは笑う』(マーブルトロン発行・発売中央公論社)に、改訂版が収録されています。どうか本でお笑いください。北山耕平 拝
せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあったジョークは『インディアンは笑う』(マーブルトロン発行・発売中央公論社)に、改訂版が収録されています。どうか本でお笑いください。北山耕平 拝
以下のインフォメーションを見つけたのでそのまま掲載します。
詳細は「http://www.slothclub.org/pages/sunpeaks/index.htm」で確認を。
カナダ/ブリティッシュ・コロンビア州の先住民族リルワットとセクウェップムゥの人びとが5名来日します。北海道札幌市と東京都内で先住民族の復権運動についての 講演や文化交流の集いが催されます。奮ってご参加ください。
[札幌集会]
■いまカナダで起きていること─開発と闘う先住民
と き:2004年12月3日(金)18:30〜21:00
ところ:男女共同参画センター 中研修室(4階)(札幌市北区北8条西3丁目 札幌エ ルプラザ)
*資料代・会場費カンパ
共 催:ヤイユーカラの森、アイヌの女の会 連絡先:ヤイユーカラの森
Tel:011-592-1748 E-mail:yykm@coral.plala.or.jp
■先住民・文化の夕べ─アイヌとカナダ・ネイティブの交流
と き:2004年12月4日(土)18:00〜21:00
ところ:男女共同参画センター 中研修室(4階)(札幌市北区北8条西3丁目 札幌エ ルプラザ)
共 催:ヤイユーカラの森、アイヌの女の会
連絡先:ヤイユーカラの森 Tel:011-592-1748 E-mail:yykm@coral.plala.or.jp
[東京集会]
■カナダ・先住の民の歴史と文化
と き:2004年12月7日(火)18:30〜20:30
ところ:ピースボートセンターとうきょう(東京都新宿区高田馬場3-13-1 ノークビ ルB1)
交通:JR山手線・西武新宿線・地下鉄東西線高田馬場駅より徒歩7分
地図 → http://www.peaceboat.org/office/index.html
*資料代カンパ 共 催:ヤイユーカラの森、ピースボート
連絡先:ピースボート 担当・遠藤、井上 Tel:03-3363-7561 Fax:03-3363-7562
■拡大するリゾート開発から民族文化を守るために
と き:2004年12月8日(水)18:30〜20:30
ところ:アイヌ文化交流センター(東京都中央区八重洲2-4-13 アーバンスクエア八 重洲3F)
交 通:JR東京駅八重洲南口より徒歩4分
地図 → http://www.frpac.or.jp/center/c_map_f.html
資料代:500円
共 催:ヤイユーカラの森、レラの会、先住民族の10年市民連絡会 連絡先:先住民族の10年市民連絡会
Tel&Fax:03-5932-9515
ゲスト・プロフィール
《セクウェップムゥ民族セクウェップムゥ・ネーションから》
●アイリーン・ビリー アダムズレイク・バンドの長老。スクウェルクウェックウェルト・プロテクション センターを拠点にサンピークス・リゾート拡張開発反対運動を展開しているリーダー の一人。文化や言語の復興にも寄与し、ヨーロッパやカナダ各地で講演。料理が上手 く、彼女のバニック(揚げパン)はカムループスの街でも大好評。
●スカヒーシュ・マニュエル ネスコンリス・バンドの若者のリーダーの一人。先住民族ユース運動(Native Youth? Movement)に参加している。カナダおよび国際的に活躍した先住民族運動 の先駆者であったジョージ・マニュエルは祖父にあたる。両親や妹も来日しアイヌ民 族と交流、兄は厚木に駐留していたことがある。スカヒーシュは灰色グマ(グリズリー ・ベア)の意味。 《スタトゥムゥ民族リルワット・ネーションから》
●ロザリン・サム マウントカリー・バンド。シュティカ(冬の精)を拠点にスキーリゾート開発反対 運動を展開しているリーダーの一人。先住民族問題と環境問題からのアプローチを積 極的に行なっている。今春、ピースボートの水先案内人としてグアテマラからバンクー バーまで乗船。
●ジョジーナ・ネルソン マウントカリー・バンドの文化伝承活動のリーダーの一人で、先住民族料理のスタ ンドやケータリング・ビジネス(パーティなどの仕出し業)を経営。最近漁業権訴訟 で勝訴。1999年札幌で開催された「フォーラム'99/先住民会議」に参加。アルビン の母。
●アルビン・ネルソン マウントカリー・バンド。アイヌ民族とカナダの先住民族との交流を10年近く継続 しており、日系カナダ人や中国系カナダ人との交流も活発に行なっている。ドラムや 歌も上手い。ピースボートの寄港地バンクーバーでのプログラムを妻モニと支えたり、 今秋には水先案内人として乗船。1999年札幌で開催された「フォーラム'99/先住民 会議」に参加。少年サッカーチーム「コヨーテ」を率いて来日したこともある。
主催:カナダ先住民族基金日本グループ
11月の第4木曜日は「サンクスギビング・デイ」で、アメリカは休日となり、年末に向けてのホリデー・シーズンに突入します。ひとびとは七面鳥の肉とスカッシュにクランベリー・ソースをかけてほおばることになっています。この「サンクスギビング・デイ」は普通日本では「感謝祭」として紹介されていますが、その背景は知られていません。
見てきたような話をすれば、あれは1637年のこと、現在のコネチカット州南東部に国を持っていたピーコット・インディアンの老若男女ほぼ700人ほどが、コネチカット州のグロトンというところで毎年恒例の「グリーン・コーン・ダンス*」を踊るために集まっていたと想像してほしい。それは平和のための祭りでした。ところが集会場の周辺には英国とドイツ国からお金で集められた傭兵たちが配置され、集まっていたピーコットの人たちが彼らによって銃撃されて殺されはじめたのです。逃げまどうピーコットの人たちが逃げ込んだ建物には火が放たれて、多くがそこで生きたまま焼き殺され、祭りに来ていたほとんどのインディアンたちが殺されました。
この悲惨きわまりない事件の翌朝、マサチューセッツ湾植民地の統治者のウィンスロップは、「これからは毎年その日をサンクスギビング・デイにする」と公式に宣言したのです。「700人を越える大量の男や女や子供のインディアンたちを地上から消滅せしめたことを神に感謝しようではないか。今後100年間は知事や大統領によって任命される聖職者のひとりひとりがその日の勝利を讃え、戦を勝利に導いた神を称えるだろう」と。
感謝祭の休日の起源は、平和なものでも何でもありません。多くのアメリカ・インディアンはその日を感謝祭として祝うのをやめています。もちろん家族が集まって一年の収穫を感謝することに彼らが異を唱えているのではなく、こうした虐殺の歴史が感謝祭のバカ騒ぎの陰に消されないために、彼らは感謝祭とはどういう日なのかを次の世代に伝えようとしているのです。
*グリーン・コーン・ダンスはネイティブ・アメリカンのほとんどの部族や国でおこなわれる盛大な祈りの儀式で、日時は特に決められていない。
今日は本当にひさしぶりに東京の六本木というところに行き、東京ランダムウォーク と再オープンしたABC(青山ブックセンター)のふたつの書店をはしごした。途中の神社で新嘗祭にでくわし参拝後つきたてのからみ餅などいただく。東京ランダムウォークは、店内空間も広すぎず狭すぎず、なかなかに居心地のよい本屋さんで、それなりのセレクションだったが、土地柄かグラフィック系が多く、神田神保町店のほうが本の選び方では自分の好みには合うようだ。ABCは、心配をよそに相変わらずABCをしていて、一度倒れて再び立ちあがったリングの上のボクサーよろしく相応の健在ぶりはうかがえて、古い友だちと会ったような安らいだ気分だったが、六本木という街全体がなんだか影が薄くなってきているような気がした。これ見よがしのビルは建ってはいるのだが、印象はあまりよくない。もっともこんなときに20年も前の思い出に浸ったところで意味はないのだが。暮れなずむ六本木の町を「エブリバディ・マスト・ゲット・ストーンド」と歌いながら歩き回った日々よ。Aha!
東京ランダムウォークで1時間ほど粘ったあげくジャック・ケルアックの俳句の本をかみさんに買ってもらった。それはペンギン文庫の詩集にはいっていた。
JACK KEROUAC
BOOK OF HaiKUS
EDITED AND WITH AN INTRODUCTION BY
REGINA WEINREICH
PENGUIN POETS
ISBN 0-14-200264-X
ケルアックは自分でも俳句の本を編集するつもりでいたらしいが、結局その本は作られることはなかった。編者であるレジナ・ウェインライヒはケルアックの書き残したさまざまな手紙やメモなどの中から彼が書き残した俳句(俳句というよりハイクと書いた方がいい。ケルアック自身はアメリカン・ポップと呼んでいる三行詩)を選び出してこの本を編集した。で、この本を買いたくなった理由はただひとつしかない。本文ではなく、ケルアックが友人のローレンス・ファーリンゲテイ(Lawrence Ferlinghetti)に宛てた1961年11月手紙の中で「自分の最高傑作だと思う」と書いているハイクが忘れられなくなってしまったからなのだ。それは次のようなものである。日本語は北山による試訳。
Chief Crazy Horse looks
North with tearful eyes---
The first snow flurry
チーフ・クレイジー・ホースの
北を望む目に涙
初雪の舞う
いわゆる「ホピの予言」とされるものにはいくつか別バージョンがある。今回は1959年にメソジスト派と長老派の教会の内部で謄写版印刷されて内部で回覧されていたとされる文書に記されていたもので、1963年にフランク・ウォーターズが『ホピの書』を刊行することではじめて世界に紹介されたものを紹介しておきたい。1993年に刊行された日本語訳「ホピ宇宙からの聖書」(林陽 訳)では、この予言に関してはなぜか割愛されているようである。(わたしは徳間書店版の「ホピの書」のあまりよい読者ではないので、もしかしたら翻訳されているのかもしれないが)
このホピの予言は、ホワイト・フェザーと名乗った人物が語った「もうひとつのホピの予言」とされるものだ。説明によれば1968年のある暑い夏の日、デイビツド・ヤングという名前のひとりの聖職者が焼けつくような沙漠のハイウエイを車で走らせていたときのこと、ひとりのインディアンのエルダーが道を歩いているのを見つけて、彼に同乗を勧めたという。老人はひとつうなづいて車に乗り込んだ。それからしばらくインディアンの老人は黙したままだったが、やがてあるとき口を開いて「自分はホワイト・フェザーという名前だ。ホピの古代熊氏族に属する」と語りはじめた。
ホワイト・フェザーは、ホピの言い伝えを信じてこれまで北米大陸の各地を「兄弟」をもとめて旅をして歩いてきたと語った。「いろいろにところでいろいろな人から学びたくさんの知恵を得た。一族の聖なる道を踏み外すことなく遠方まで旅をして、東の森で暮らす人たち、たくさんの湖で生きる人たち、北の氷に閉ざされた長い夜の土地に暮らす人たち、南にあるはるか昔に兄弟の父たちによって建造された石造りの祭壇を持つ人たちの土地を訪れた。そうした土地の行く先々で彼は過去の話を聞き未来に起こる予言を確かめた。今では予言とされるものの大半は過去の物語に姿を変えていて、残されているものはわずかであり、過去は日に日に長く、未来は日に日に短くなっている」と。
「そして今自分は死につつある」と彼は続けた。「息子たちはみな祖先の仲間入りを果たし、自分もやがては彼らのところに行くだろう。残念なのは自分が学んで暗唱した古代の知恵を伝える人間がひとりも残されていないことだ。わが一族のものたちは昔の生き方にへきへきしていて、自分たちの起源を伝える偉大な儀式にも、第四の世界への出現を伝える儀式にも飽きてしまい、あらかじめ予言されてはいたというものの、ほとんどうち捨てたまま顧みることもなくなってしまった。残された時間はわずかしかない」
「わが一族はパハンナを、行方知らずの白い兄弟を待ち続けた。彼はわれわれが知っているような残虐で強欲な白人ではないだろう。彼の到来はずっと昔からいわれ続けた。そして今なおわしらは彼を待ち望んでいる」
「彼はシンボルを手にして現れることだろう。ホピの長老たちが守っている聖なる石版の欠けている部分も、彼は持ってくる。別れ別れになる前にそれは彼らに手渡されたものなのだ。その石版こそが、彼らが真の白い兄弟である動かぬ証拠なのだ」
「今の四番目の世界はまもなく終わることになるだろう。そして第五の世界がはじまる。各地のエルダーとされる人たちはみなこの事実を知っている。新しい世界の到来を告げる御しるしはこれまでにいくつか確認され、残された御しるしもあとわずかだ」
最初の、第一の御しるし われわれに伝えられているのはパハンナのごとき白い肌の人たちの到来。この人たちはパハンナのように生きることはなく、自分たちのものでもない大地を取りあげて、敵を稲妻で打ちのめす。第二の御しるし たくさんの声とともに回転する車輪が訪れるのをわれわれの大地は目撃する。
第三の御しるし 大きくて長い角をつけたバッファローのような奇妙な獣が無数にこの大地にあふれかえる。
第四の御しるし 大地を縦横に走りぬける鉄の蛇たち。
第五の御しるし 巨大な蜘蛛の巣が大地の隅々までを覆い尽くす。
第六の御しるし 描かれた太陽のごとく無数の石の河が縦横に走り巡らされた大地。
第七の御しるし 海の水が黒くかわり、そのことでたくさんの命が失われたとの風の知らせ。
第八の御しるし 一族の者のごとく髪を長く伸ばした多くの若者たちがやってきて部族の国々に加わり、生き方や知恵を学ぶ姿を目撃する。
そして最後の、第九の御しるし 天界の居住施設が大音声とともに落下して地表に激突。青き星が姿を現し、そのあとをおいかけるようにホピの人たちの儀式が止むとき。
「このようなしるしとともにとてつもない破壊の時が訪れる。世界は前に後ろにと激しく揺り動くだろう。白い人たちは他の土地のーー最初の知恵の光を所有するーー人たちを相手に戦うことになる。ここからさほど遠くない沙漠で白人が引き起こしたような、幾本もの煙と炎の柱が立ちのぼる。ホピの場所にとどまり暮らしているものの安全は保たれるだろう。そしてつぎに再建の時がようやく訪れる。そしてじきに、再建の時がやってきたあとすぐに、パハンナが帰ってくる。彼は第五番目の世界の夜明けを運んでくるだろう。われわれの心の中に彼の知恵の種を植えつけることだろう。種は必ず植えつけられることになっている。その知恵が五番目の世界への移行を円滑なものとするだろう」
「だがわたし、ホワイト・フェザーは五番目の世界を見ることはなかろう。なにぶんわたしは歳だし、死にかけてもいる。おそらく、あなたなら、あなたなら、それを見ることができるやもしれない」
その年老いたインディアンはそこまで語ったあとはもう口を開くことはなかった。ふたりを乗せた車は彼の目的地に到着し、そこで牧師は老人と別れた。デイビッド・ヤングはわざわざ車を降りて老人が車から降りるのに手を貸している。ふたりはその後二度と会うことはなかった。デイビッド・ヤング牧師は1976年にこの世を去っている。彼もこのホワイト・フェザーというホピの老人が伝えた予言が成就するのを目撃することはなかった。
ここでそれぞれの御しるしについて、少し解説を加えておこう。これはあくまでもひとつの解釈であることを前もってお断りしておくけれど、まず第一の御しるしは「鉄砲の到来」とされる。第二の御しるしは「開拓者たちの幌馬車」。第三の御しるしは「ロングホーン種の牛」。第四の御しるしは「鉄道線路」。第五番目の御しるしは「電気・電話線」。第六の御しるしは「コンクリートのハイウエイ」。第七の御しるしは「重油による海洋汚染」。「第八の御しるしは「60年代末から70年代に欠けてのヒッピー運動」。第九の御しるしは「宇宙ステーション」か? そういえば1979年にスカイラブが墜落しているが、その程度の墜落ではないかもしれないな。
いずれにせよ「青い星のカチーナが天界にその姿を現したとき、第五番目の世界が出現する」とホピの古代熊氏族に属したホワイト・フェザーが伝えた予言では、「浄化の日」はそのようにはじまることになっている。ホピの人たちは「犬狼星(ドッグ・スター)シリウス」を「青い星のカチーナ」と呼んできた。ホピの言葉で「サクアソフー」とされる「青い星」、そのカチーナが広場で踊って、そして仮面をはずしたとき、浄化の日も訪れるのだ。
それが明日でないと誰が言えるだろうか?
LAタイムズのオンライン版(11月18日)が伝えているところによれば、ロシアの極北地帯で海洋性の野生動物に食生活を依存している先住狩猟民たちの化学物質汚染がきわめて深刻だという。ソ連崩壊以後、極北の先住民たちの暮らす土地に食料が持ち込まれることがほとんどなくなって、先住民たちは伝統的な食料であるアザラシや鯨などの海獣に食生活の依存度を高めてきた。そこまでは過去数千年間続いてきたライフスタイルなので問題はないのだが、問題は、地球規模の風や海流の流れによって近年大量の化学汚染物質(残留性有機汚染物質)が世界中から極北地方に流れ込んでいることによって、彼らの口にするものがそれらの汚染から免れないという現実である。世界各地から流れ込む化学汚染物質が高濃度にたまり続けているのが、とりわけあのベーリング海峡の周辺であり、被害を被っているのもロシア極北のチュコトカや海峡を越えたアラスカ側で生活している先住民たちだという。これまでも科学者たちは極北の地に暮らすグリーンランドやカナダのイヌイットたちが地球上の他のどこの地域に暮らす人たちよりも化学物質(残留性有機汚染物質)による汚染が深刻であることを指摘してきた。今回、アメリカとロシアの科学者が共同で調査分析をした結果、これまで一度も調査されたことのなかったロシアの極地に暮らす人たちの間でいっそう被害が甚大であることが明らかになった。報告は「環境と人体へ与える危険度がこれまでで最も深刻」と告げている。特にヘキサクロロベンゼンとヘキサクロロシクロヘキサンというふたつの農薬、そして地域によってはPCBや、農薬のDDTの汚染レベルが極地の中のどこよりも高い数値を示していた。カナダとアラスカとグリーンランドとチュコトカの極北の人びとの代表である極地周辺の全イヌイット会議の会長であるシェイラ・ワット・クロゥティエ氏は「汚染はわれわれだけでなくわれわれの子供たちにも広まっている」という。この極北地帯の深刻な化学物質汚染は、そこに暮らす人たちの問題ではなく、あきらかに全地球規模の問題であることは間違いない。ノルウェイに拠点を置いて極地モニタリング・プログラムを続ける団体のラーズ・オットー・レイアーセン事務局長は「化学物質を作り出してきた工業化した国々には解決策を見つける道徳上の義務があります」と指摘する。「ゴミを隣の庭に運んで放置したまま目をつぶっていることはできない相談です。化学汚染物質というのはそもそものもとを断つしかありません」地球を汚染している化学物質の大半をいわゆる工業国といわれる国々の多くが現在禁止してはいる。しかしそれでもなお古い施設や貯蔵庫から漏れ続け、大地や河川や海洋を汚染し、最終的に化学物質は極北の地にやってきてたまり続けこのあと何十年もそこにとどまり続けることになる。
*図版は北極圏の地図。右上にあるのが日本列島の一部。北米大陸との距離感がよくわかります。
せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。北山耕平 拝
半年ほど前、夏至の少し前に「80体のカチーナ人形たちに会いに行きたい」としてお知らせしたことがある「アンテスとカチーナ人形——現代ドイツの巨匠とホピ族の精霊たち」という展覧会が現在兵庫県の伊丹市立美術館で現在開催されています。(12月12日[日曜日]まで。月曜日休館。午前10時から午後6時[入館は午後5時30分])
来月12月の冬至になるとホピの土地ではソーヤルという例大祭が行われ、そこからまた新しい一年のサイクルがはじまります。ホピの人たちにとって12月はもっとも聖なる月。だから11月の下旬は、一年のサイクルの締めくくりの時であり、またホピの村々では大祭のための準備もはじまり、精霊の世界ではソーヤルカチーナというカチーナの中のカチーナ、チーフ・カチーナが、サンフランシスコピークという高い山の頂から山道をおりてくるとされています。夏至の日を境に山に帰って休養をとっていたチーフ・カチーナが、あまりに寝過ぎたせいか大儀そうな様子で、低い声で聖なる歌など口ずさみつつやってきて、一番メインのキバを開き、カチーナの働く時がきたことを告げるのです。これはホピの人たちが今暮らしている四番目の世界にやってきたときのありさまを象徴している儀式だとも言われています。
キバというのは、地中に掘られた聖なる空間で、他のプエブロの人たちのキバは普通円形をしているのですが、ホピのキバだけは四角形をしています。構造は彼らが信じるところによるこの世界のはじまり方を象徴しています。キバの一番底辺部に小さな丸い穴が開けられていて、その穴は、ホピの人たちが、地下の「火」の世界から集団で移住してくるために伝ってきた穴とされています。この穴は「シパウ」とか「シパプニ」と呼ばれます。この出現した穴は、あのグランドキャニオンのさる場所の壁面に現実にあるのだといいますから、あきらかに彼らはコロラド川を遡つてやってきた人たちでしょう。穴から出た底面は二番目の「空気」「気」「風」「命の呼吸」の世界をあらわします。そのまわりをぐるりと囲んでいて普段は儀式の観衆が座る席になっている一段高いところが、三番目の世界で、「水」「血の流れ」をあらわしています。そしてそこからはしごを伝って四番目の世界、今わたしたちが暮らしている世界にのぼっていくのです。(キバの構造については、ホピが自分たちの祖先だと言っているアナサジの人たちのキバの構造が遺跡から細かく研究されていて、たとえば Sipapu--Chetro Ketl Great Kiva のような三次元映像でその内部をグラフィカルに見せてくれるサイトもあります。)
ちょうど今頃、新月を過ぎてすぐのころは、サンフランシスコピークの山懐のどこかにあるとされるカチーナたちのキバで、年老いたチーフ・カチーナがスピリット・ワールドへの新たな旅立ちに向けての訓辞でもしているころかもしれません。ホピの村の人たちはパホとよばれる「祈り棒」作りに精を出しはじめたころで、子供たちがそれぞれの結社に入団するためのウウチムという儀式(一年を締めくくる祭礼)がとりおこなわれています。ウウチムというのは「発芽」ということで、これはあらゆるいのちあるものが成長をはじめるための準備にはいることをあらわしているようです。このあたりのところは小生が翻訳したスピリットのある小説『輝く星』にていねいに、かつ印象深く描写されていますし、もっとホピの象徴そのものを詳細に学びたい人はフランク・ウォーターズの書いた『ホピの書』(日本語タイトル「ホピ宇宙からの聖書—アメリカ大陸最古のインディアン」徳間書店刊)に詳しく書かれています。
さて「アンテスとカチーナ人形——現代ドイツの巨匠とホピ族の精霊たち」展に話を戻しますが、ホピのカチーナ人形がこれほどまとまって日本で公開されるのはこれがはじめてのことです。ドイツ美術界の巨匠とされるホルスト・アンテスに大きな影響を与えたのが「万物に宿る精霊を表現した芸術性の高さ、時間を超越した宇宙観」(伊丹市立美術館のパンフレットから)をあらわしているホピのカチーナ人形たちでした。彼は世界的に有名なカチーナ人形のコレクターです。カチーナ人形自体は今もホピの人たちの手で作り出され続けていますが、アンテスが集めたカチーナは年代的にも技巧的にもそこに込められたスピリットにおいても重要なものばかりです。ホピの土地を訪れてもこれだけまとまってカチーナたちに会える機会はまずありません。この新しい一年のサイクルのはじまろうとしているときに、ホピのカチーナたちに会いに行くのもなかなかな体験になるのではないでしょうか。
なお11月28日(日曜日)午後2時から、小生が伊丹市立美術館1階の講座室で「ホピとはいかなる人たちか——仮面の神々/ホピ・カチーナの宇宙」と題する講演会を行います。詳しくは、伊丹美術館のホームページで確認してください。お近くにお住まいの方はぜひおいでください。講演は無料ですが、「アンテスとカチーナ人形」展の観覧券(一般700円、大学高校生350円、中学小学生100円)が必要です。
この「アンテスとカチーナ人形展」は、伊丹市立美術館(10月30日〜12月12日)のあとは、岩手県立美術館(2005年4月9日〜5月22日)、いわき市立美術館(2005年5月28日〜7月3日)、神奈川県立近代美術館・葉山館(2005年7月9日〜8月28日)で開催されることがきまっています。
*注意 ここに掲載したカチーナ人形の写真は「ソーヤルカチーナ」の人形ですが「ホルスト・アンテスのコレクションとは関係ありません。この人形はホピのアーティストの人たちがリザベーションのなかでひらいているホピ・マーケットというアート・ショップののカタログに掲載されていたものです。Hopi Marketのウェッブサイトは「http://www.hopimarket.com/index.htm」にあります。このソーヤル・カチーナ人形はホピのアーティスト、フレッド・J・ロス(Fred J. Ross)氏作のものです。
せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあったジョークは『インディアンは笑う』(マーブルトロン発行・発売中央公論社)に、改訂版が収録されています。どうか本でお笑いください。北山耕平 拝
アメリカでは今月11月は「国をあげてアメリカン・インディアンのさまざまな遺産を顕彰する月間」つまり「National American Indian Heritage Month」です。これは大統領に再選されたばかりのジョージ・W・ブッシュ君の父さんのパパ・ブッシュことジョージ・H・W・ブッシュが1990年に思いついたことで、94年からは毎年似たようなことが11月におこなわれるようになってる。ほんとうは9月にワシントンDCに出来た国立インディアン博物館の盛大なオープンにあわせればよかったんだろうけれど、こっちは父親の決めたことには逆らえないんだね。ブッシュ現大統領がこの月間に託した熱い(?)声明は、ホワイトハウスのウェッブサイトのなかのここでごらんになれます。
そういえば先の選挙戦で、シュワちゃんことアーノルド“パンピング・アイアン”シュワルツネッガー・カリフォルニア州知事の応援を受けた際、ジョージ君が「自分はシュワルツネッガー君とよく似ている」とジョークを飛ばしていた。そのココロは「ふたりとも英語がうまくない」だって。シュワルツネッガー・カリフォルニア州知事はオーストリアで生まれて、ミスターユニバースになってからアメリカにやってきたばりばりの移民。ブッシュ大統領はテキサスはアメリカよりもでかいと思っているような金持ちカウボーイの息子だ。でも大統領は冗談にせよ「英語が上手でない」ことを知っているらしい。自分を知っているというのは、すてきなことではないか。
そこで今回は「アホでマヌケ」だと噂される彼の声明文を、2種類の機械翻訳にかけてみた。ひとつはエクサイトという検索サイトにあるウェブページ翻訳で、もうひとつは Mac OS X Version 3.6 Build 7R28 に付随するシャーロック Sherlock 3という検索ソフトによる翻訳だ。どちらも似たり寄ったりの出来ばえだが、原文とつきあわせて読むと、おぼろげながら言いたいことは伝わってくる。
はるか昔、英語がまったく理解できなかったインディアンの人たちが、土地を取りあげるために「偉大な白人の父」大統領の署名の入った一枚の紙切れを突きつけて、ぺらぺらとやたらまくし立てる白人を前にしてなにを感じていたか、結局はすべて破られることになる大統領の署名入りの平和条約が、もったいをつけた英語で記された紙を前にしてなにを思っていたか、アメリカ・インディアンの大いなる遺産を顕彰する月の余興としてお楽しみください。
なお、冒頭部分は機械のバカさが一番出ているので、せめてイントロ部分ぐらいはわかりやすく解説しておくと「わたしたちの国を『ホーム』と呼ぶファースト・ピープルであるアメリカインディアンやアラスカのネイティブの方々は、この大地の中に気高い歴史を持っており、長くわたしたちの国家を形作ってきました。アメリカ・インディアンの遺産を国を挙げて言祝ぐ月間の間、わたしたちはネイティブ・アメリカンの伝統と文化に敬意を払い、それを守ることに参画できることを祝います」という、スピーチライターの手になるおそろしく歯の浮くような言葉が並べられ、「国土安全保障(ホームランド・セキュリティ)」のために500年続いた大虐殺の歴史なんてみじんも感じさせないものになっています。(なお機械翻訳には一切まったく手を加えていないことを最後に申し述べておきます)
35年前の1969年11月9日。当時20代だったモホーク・インディアンのリチャード・オークス(Richard Oakes)をはじめ、イヌイット、ウィネパゴ、チェロキーなど、サンフランシスコのベイエリアに暮らす都市暮らしの大学に通う若いインディアンたち75人が「モンテ・クリスト(巌窟王)」と命名された一艘のチャーター・ボートで、サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラツという名前の——かつて連邦刑務所が設置されていた——岩の島に上陸して「アメリカ大陸はわれわれのものである」と宣言した。これがアメリカ・インディアンの現代史の中で最も重要な出来事とされるアルカトラツ島占拠事件の発端である。
当時対岸のサンフランシスコ市ではじまっていたビートの影響を色濃く受けた白人のヒッピー運動と、全米各地に広がりを見せていた黒人の公民権運動の影響を受ける形ではじまったこのインディアンの青年たちの抗議運動は、またたくまにたくさんの人たち、部族を巻き込んで、20日には正式な文書としてすべてのインディアンの国々を代表する形でアメリカの大統領と国民に向けた宣言が公開され、これが世界に流されるネットワークニュースにとなるまでに拡大、島の占拠はそれから一年以上も続き、南北アメリカ大陸の心あるインディアンに影響を及ぼして、今につながるインディアンの権利回復と精神復興運動の口火となった。(当時高校生だった私にはその映像をテレビの海外ニュースで見た記憶がなぜか鮮明にある)このときの宣言は「すべての国々のインディアンから偉大な白人の父と彼に従う人びとへ——アルカトラツ宣言」*註として記録に残されている。
*註「親愛なる市民の皆さん どうかすべてのインディアンと呼ばれる人びとの暮らしをよりよくするために、われわれのもとに集っていただきたい。われわれが今アルカトラツのうえにいるのは、われわれにはわれわれの大地をわれわれ自身の利益のために使う権利があることを、全世界に知らしめるためである」という呼びかけからはじまる宣言は、なかなか感動的な文書だ。機会があれば、翻訳したいと考えているのだがその思いを果たせないでいる。
中産階級のごく普通の——ハリウッドの映画産業とメディアの陰謀でインディアンはもうアメリカから姿を消したと思いこまされていた——ヨーロッパからの渡来系アメリカ人たちが、幽霊ではない、生身の生きてピンピンしてるインディアンたちの姿をテレビ中継を通してはじめて確認したことによるこのアルカトラツ・ショックは、その後21世紀になるまで世界に影響を与え続ける。
実はこの事件には予告編があった。アルカトラツの監獄は、19世紀に建設された当時は主にアメリカ・インディアンの中でもなかなか転向しない筋金入りの反抗的人間を収容してたたき直すための仕置きの場所であり、ホピの伝統派の人たちのほとんどが皆この獄舎を体験していた。のちに20世紀初頭になって連邦刑務所が新たにそこに建造され、名うての凶悪犯罪人を収監する脱出不可能な監獄としてアメリカ中に知れ渡ることとなって、禁酒法の時代にはシカゴ・ギャングのボスであったアル・カポネもここに入れられている。老朽化したアルカトラツ刑務所が閉鎖されたのは1964年、そしてそのまま島は連邦政府の持ち物とされてしまった。この年の3月9日、リチャード・マッケンジーという名前のラコタの長老ら5人のインディアンが伝統的な部族の衣装を身にまとってサンフランシスコ湾のまん中にある岩でできたこの小さな島に降り立ち、丘の斜面にアメリカの国旗を立てて儀式を行ったあと記者会見を開き、1868年の条約——スー族のチーフ・レッド・クラウドがララミー砦において合衆国政府と交わし、停戦とひき換えに土地の自由使用を認めた条約——に基づいて、この「岩」はインディアンのものであると宣言するとともに島を一時占拠する事件が起きた。5人は占拠の間にアルカトラツ島の刑務所跡地にインディアン文化を学ぶためのカルチャー・スクールとインディアンのための大学を造るべしと訴えた。ひとりのメディスンマンがパイプに火をつけ、白い煙がたちのぼると、国立公園のレンジャーがやってきて、4時間後、彼らは大きなトラブルもなく退去させられている。この年、以前にも書いたが、東京でオリンピックが開催されて、陸上トラックの一万メートル競技で、ひとりのアメリカ・インディアン(ラコタ族パイン・リッジ・リザベーション)出身の26才の青年が優勝した。青年は名前を「ビリー・ミルズ」といい、アメリカ陸上チームに選ばれた最初でただひとりのスー・インディアンの青年だった。モホークのリチャード・オークスらがアルカトラツ島に上陸してインディアン精神復興運動に火をつけるのはそれから5年後のことである。
アルカトラツ占拠事件は当時世界中の注目を集めたこともあり数多くのカメラマンによって撮影されていて、現在はネット上で公開されているものもあるから、はじまりを知る意味でもごらんになることをおすすめする。
▼われわれは岩にしがみついた "We Hold the Rock"
アメリカの国立公園管理局がアルカトラツという島とネイティブ・アメリカン・ピープルの占拠事件の関わりをわかりやすくまとめたページ 記事はアメリカ現代史のなかのインディアンを研究するカリフォルニア州立大学教授のトロイ・ジョンソンが書いている。ここに収監されていたホピの人たちの写真も公開されている。
▼写真で見るアメリカン・インディアンのアルカトラツ島占拠 1969‐1971
The American Indian Occupation of Alcatraz Island by Professor Troy Johnson, California State University, Long Beach
トロイ・ジョンソン教授がアルカトラツ占拠に関わった複数のカメラマンや公園監督局などから集めた写真を公開しているもの。
▼「アルカトラツ占拠の思い出と、規則的にこの島に帰ってくるネイティブアメリカンたちのために」
"In memory of the occupation of Alcatraz, Native Americans regularly return to the Island. "
トロイ・ジョンソン教授が構成したページにも写真を提供している写真家のイルカ・ハートマン(Ilka Hartmann)が個人的に公開しているページ。
『インデイアン・カントリー・トゥディ(INDIAN COUNTRY TODAY)』の11月5日号が「ホピの予言が指摘していた気象異変」という記事を掲載している。著者はインデイアン・カントリー・トゥディ紙のコラムニストで、ニューヨーク州立大学バッファロー校で「先住民研究」の教鞭を執るジョン・モホーク(John C. Mohawk)という人。記事はこういう書き出しだ。
「今から70年ほど前、ホピの伝統派が世界中の人たちに向けてあるメッセージを公表した。声明は、スピリチュアルなものへの関心が欠落したために世界が大きな厄災に見舞われる危険度が高まっていることを告げるものだった。その災いは、たとえば荒れ狂う嵐の形をとるだけでなく、結果として世界の人びとを脅かすようなありとあらゆる分裂や混乱の様相を呈することになるだろうと。彼らは、同じことが遠い過去にも起きたのだと語った。そして太古から伝えられた予言をふくむ、ありとあらゆるしるしが、同じことがまた起きようとしていることを告げていると主張した。このメッセージを伝えるためのスポークスマン的な働きをした人物にトーマス・バンヤッカ(Thomas Banyacya)がいた。そして実に興味深いことに、彼らがあのときに世界に向かって発したメッセージがあやまちでなかったことを証明するような事実が、ここへきてアメリカ中の図書館や科学雑誌の記事の中に散見されるようになってきたのである」
せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあったジョークは『インディアンは笑う』(マーブルトロン発行・発売中央公論社)に、改訂版が収録されています。どうか本でお笑いください。北山耕平 拝
幸福は、それだけでも良いものであるが、とても健康的でもある。
——ホピの教え
Happiness is no only good in itself but it is very healthful.
--Hopi teaching
アメリカ・インディアンの世界には特別な英語がたくさんあります。主に今を生きるインディアンの若い世代と話をしたり、またシャーマン・アレクシー(Sherman Alexie)のような現代アメリカを代表する若いネイティブの作家の小説を楽しんだりするときに知っておいた方がよい言葉を集めて解説してみました。ひとつひとつ言葉の裏にあるもうひとつの意味みたいなものがわかると楽しめると思うし、なによりも「日本人」をやってる僕たちが自分たちの英語を作るときにもきっと参考になると考えています。そろそろ「命令されたことを実行する能力を鍛えるだけの植民地英語」から脱出しましょうよね。なお以下の言葉の並びは順不同です。
『ズニ族の謎』(ナンシー・Y・デーヴィス 著 吉田禎吾+白川琢磨 訳 筑摩書房 ちくま学芸文庫)という本を読んだ。原題は「THE ZUNI ENIGMA」という。「エニグマ」である。エニグマという言葉でまずわたしが思い出すのはピンク・フロイドというプログレッシブ・ロック・バンドだが、それもまた謎としておいておくことにして、「エニグマ」という単語は意味としては「不可解なるもの」をあらわす。ズニ(Pueblo of Zuni)は、ネイティブ・アメリカンの一部族であり、北米大陸南西部現在のニューメキシコのとてつもなく美しい沙漠の中——大陸分水嶺近くの「宇宙の中心」——で暮らすプエブロと呼ばれる農耕定住の民で、精神的にはホピときわめて近いところに位置し、ホピと同じぐらい、もしかしたらホピに輪をかけて謎めいた人たちである。
わたしは一度彼らの冬至の頃のシャラコの祭りの時にたまたまリザベーションの中に旅行者としていたことがあるのだが、神秘的な黒い瞳のまなざしに面食らったことを昨日のことのように覚えている。この本『ズニの謎』は、「ズニの人たちは日本人と親戚であって12世紀頃に太平洋を船で渡った百人前後の日本人がズニの中に入っている」という驚くべきかつ多くの人には耳を疑うような主張をしている本であり、当然ながら人によっては「とんでもない本」の分類に入れるたぐいのものかもしれない。
たとえばフランク・ウォーターズの書いた古典の『ホピの書』に「宇宙からの聖書」というタイトルをつけて発売した徳間書店などが、「ズニ族になった日本人の謎」のようなおどろおどろしいこけおどし的タイトルで、巻末の参考文献リストなどはずして出版すれば、それなりに好事家の間で話題になった本なのだろうと推測される。後付を見ると、この本は今年の9月に第一刷りが発行されている。出版の世界の慣行からすれば、8月には書店の棚に並べられていたであろう本書は、これまで二ヶ月近くもどこかの新聞の書評に取りあげられることも話題になることもなかった。むしろ話題にされることを避け続けていたかのような印象まで受ける。わたしもたまたま書店で筑摩文庫の棚を見ていてこれを見つけて、即購入した。きっとあのとき見つけることがなければ存在すら知ることもなかっただろう。文学系の小説をほとんど読まないわたしは、日頃から書店で文庫の棚は、筑摩学芸文庫と早川ミステリ・SF文庫と講談社学術文庫と気が向けば岩波文庫ぐらいしか巡回しない。たまたまその日そこに一冊だけ『ズニの謎』が入っていたのは何かの偶然だった。余談になるがだいぶ前、小生が歴史の勉強の途上で、野史研究家として名を轟かしていた故八切止夫氏に「ジェロニモは日本人で、もともとは次郎仁左右衛門(ジロニザエモン)といった」というぶっ飛んだ話を聞かされて腰を抜かしそうになった記憶があり、これもそうしたぶっ飛び本かなと最初は考えたりもしたわけだが、読んでいくうちに、おおかたにはおよそ受け入れられることのない仮説を検証するためのまじめな学術的な探求の記録であることを知って、一種そこはかとない感動すら覚えた。
わたしはこの本に書かれていることがなにからなにまで真実であると思いこむような人間ではない。著者でありアラスカにある文化力学研究所に所属する先住民文化研究家のナンシー・Y・デーヴィスは、プエブロ第三期といわれる「紀元1250年から1400年の期間に、ズニ地域の居住形態に大きな変化が起きた」原因を「相当数の日本人の巡礼の到着」によるものとしている。
この本の著者もわたしも、方法論こそ違うが、今まで誰もが考えてこなかったかのようなやり方で「日本列島人とアメリカのネイティブ・ピープルのつながり」をこれまで考えてきた人間である。ズニの人たちと日本人がどれくらい似ているかは、それを実際に細かく検証して見せたこの本を手にとって確認していただきたい。わたしは著者の主張を全面的に受け入れるものではないが、それでもなお13世紀に日本列島から太平洋の向こう側の亀の島に渡っていった「日本列島人」の存在については、あながちないことではないと考えている。その人たちが「日本人」であるかないかはともかくとして。
1250年頃、13世紀半ばといえば、日本列島はモンゴル帝国の脅威にさらされていた頃である。日本は鎌倉時代となり武士の時代になっていた。鎌倉時代というのは、朝廷の命令を受けて蝦夷征伐をなしとげて東国に居を構えた武士が軍事政権として実質的な権力を握ったころだ。重要なのは、平安末期から鎌倉初頭までの日本列島東北部における蝦夷軍事征伐の熾烈さである。北海道は当然ながらまだ日本国の枠組みには組み込まれていなくて、アイヌやウィルタなどの少数民族たちが、これも同じようにモンゴルからの圧力に少しおびえつつ暮らしていた。フロンティアの移動とともに日本列島東北部に追いつめられていて大和朝廷を構成する「日本人」から同族とは見なされず、「蝦夷(えみし)」と呼ばれていた人たちは、先住民的な生き方と考え方を持って広く日本列島に暮らして日本人となることを最後まで拒絶したために滅ぼされたか、占領捕虜として被差別階級に組み込まれていったかした人たちだ。圧倒的な軍事力に対抗して四百年間近く、あるいはそれ以上の長きにわたって武力で戦った人たちは、そののち、いったいどこに消えてしまったのか? わたしが日本列島の歴史の中で、『ネイティブ・タイム』の本なかでもっとも気にかける存在がこの人たちである。北方の少数民族を頼って船で北に逃れた人たちも多かったと推測されるだろう。わたしは、この人たちが、太平洋を陸に沿って航海し北回りで亀の島に渡っていった可能性を否定しない。この人たちが、アメリカのネイティブ・ピープルの中に消えたとしても、おそらく誰もそれを日本人だなどと認識しなかったに違いない。部族が部族ごと移住して安住の土地を求めるのは不思議でもなんでもなかっただろうから。沙漠に暮らすホピやズニの人たちの言い伝えの中に、船で大きな水をわたって移住してきた言い伝えが残されていることも妙に気になるところだ。
【参考】青森県八戸市の平安時代後期の集落跡・林ノ前遺跡(十〜十一世紀)から、前例のない数の鉄のやじりと縛られた人骨などが出土。激しい戦いの跡で、蝦夷(えみし)の地とされた本州島北東北から北海道島南部の集落は、近年の発掘でこの時期百数十年にわたり、平地を避けて山頂や環濠(かんごう)の中に作られていたことが判明しているが、今回の発見によって、この特異な集落形態が大和中央政府軍の組織的武力攻撃に備えたものだったことがほぼ確定的になった。出土したやじりは約二百点あり、遺跡全域でまんべんなく見つかっている。人骨は十体見つかったが、埋葬されたものはなかった。両手と両足を縛られた全身骨一体と、頭骨だけが三個も見つかった住居もあった。明らかに激しい戦いの末に放棄された集落だと思われる。調査終了後、遺跡のうえに県道が開通し、遺跡は周辺の一部を除いて残されることはなかった。
「ネイティブ・タイム」Version 4 の2004年の項目より一部引用
ともあれ、「日本人」と「アメリカ・インディアン」のつながりについて関心のある人なら、この本は興味深く読み進むことができるだろう。無理矢理ズニと日本人をくっつけようとする強引な箇所がかなりあるのもご愛敬かもしれないが、惜しむらくは著者がズニの成り立ちと同じくらいもう少し「日本人の成り立ち」と「日本が単一民族から構成されてなどいないことを日本列島に暮らす人たちが知っていた時代」の歴史について知識や関心を持っていてくれれば、この本はもっと光り輝いたことだろうに、まことに残念に思われてならない。
ズニ族の謎 ちくま学芸文庫
N・Y・デイビス (著),
吉田 禎吾 (翻訳), 白川 琢磨 (翻訳)
価格: ¥1,575 (税込)
● 文庫: 476 p ; サイズ(cm): 15 x 11
● 出版社: 筑摩書房 ; ISBN: 4480088342 ; (2004/09/09)
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