冬が近づいて、冬眠の準備をするためか、エサとしていたドングリのなるナラの木が枯れてしまったためか、たび重なる台風で親と生き別れになって(精神状態が普通ではなくなって)森を出ざるを得なかったためか、最近クマ出没のニュースをよく見るようになった。いや実はクマたちを取り巻く事態はもっと深刻なのだとする人たちもいる。
出没するのはたいていは子どもをつれた母グマだったり、子グマだったりする。クマの母さんは子供を本当にかわいがるから、子グマがひとりでいることはまずないし、子グマに手を出そうとするものを見つけたら本当に怒ってものすごい勢いでかかってくる。むろんなかには腹を空かせた青年期の雄のクマもいるようだが、わたしはクマが出没したというニュースを見て、各地方の猟友会のハンターの人たちがライフルを持ちくわえタバコかなにかでおびえたクマを追いかけまわしている姿を確認するたびに、なんともやりきれない気持ちにおそわれる。
クマたちのなかには運良く射殺を免れて、麻酔弾で眠らされて奥山に帰されるものもいたりするのだが、境界を越えて人間の暮らすエリアのなかに深く進入したりすると、そのときにはあっけなく射殺されてしまう。そうすると白目をむいて口元から血を流している無惨な姿がメディアによって天下にさらされることになる。だからいつまでも彼らが人里などにまで出てこなくても良いような自然環境でありつづけてほしいと願うし、もともとクマさんを含むあらゆる狩猟採集の人たちとは折り合いの悪い農家が、丹誠込めて育てた農作物にも被害がないようにと祈らずにはおれない。
ここまででうすうす感づかれたかもしれないが、わたしはクマが好きである。クマが毛皮を着た人間であることをマジに信ずるものでもある。そのようにわたしは自然を第一とするアメリカ・インディアンの世界で教育されてきたのだ(クマや蛇といった文明人が闇雲にこわがるものをいたずらにおそれずにこれを敬えと)。もちろんクマにもいろいろいて、ヒグマやアメリカ大陸のグリズリー(灰色熊)のように怒らせたら怖いのもいるだろう。日本列島の本州に生息するクマはいわゆるツキノワグマで、ほんらいはおとなしいクマであって、すでに絶滅危惧種でもある。ツキノワグマをやっている彼らは日本列島にわれわれの祖先がやってくる前から暮らしていたこの列島のネイティブ・ピープルではないのか。わたしはクマの毛皮を着た人たちが涙の旅路を追い立てられている姿をつい想像してしまう。日本列島の先住民の末裔であるアイヌも、熊は神の使いであり、毛皮を着てアイヌのもとに現れて、それを脱いで魂だけ帰っていくとする信仰を持っていたっけ。
クマといえばディズニーの映画に『ブラザー・ベア』というものがあり、今年の前半に公開された。すでにビデオ化もされている。米国アップル社の映画予告編のサイトには今もこの「Brother Bear」のよくできたトレイラー(予告編)が収められていて、ウォルト・ディズニー・プロダクションの考える魔法にあふれたネイティブの世界の一端が QuickTime で見ることができる。これは、アフリカの大地の精神を「ライオン・キング」で映画化してまんまと成功させた彼らが、今度は北米大陸のスピリットとネイティブ・アメリカン的なものの見方を何とか映画化しようとした冒険的な映画で、不覚にもわたしはそれなりに結構楽しんで最後まで見てしまった。というのも実はこの映画と同名のノベライゼーションのブラザー・ベアの文庫本(竹書房刊行)の解説を、映画公開にあわせてこの春に書かせてもらったからである。ノベライズされたものもそれなりに楽しめた。
ではアメリカ・インディアンはクマをどう見ているのか? 彼らのなかにはクマ(ベア Bear)を名前に持つ人が結構いる。19世紀にインディアンの権利回復運動の先頭に立ったルーサー・スタンディング・ベア((1829-1908))という人物は著名人でもある。北半球のネイティブ・ピープルの世界ではクマはたいていいつだって「吉兆」と考えられているようだ。クマはある種の病を癒す力を持っていると信じられていて、クマに薬草や木の根を治療に使う方法を学んだメディスンマンも多い。そういうメディスンマンは「ベア・メディスン」を使う人として特別扱いされている。そういえばローリング・サンダーが育てたメディスンマンのひとりには、その名前の通りメディスン・グリズリー・ベア(Medicine Grizzly Bear)という人もいたりする。ニューエイジ・メディスンマンと揶揄されるサン・ベアという人物も名前にクマが入っている。こういう人たちは皆自分とクマとの超個人的な関係をスピリチュアルの根っこに持っているようだ。クマは不思議な力を宿していて、クマを見たり、クマとあったりした人には何か良いことが起こるといわれている。襲われた人にありがたがれと言っても無理な話ではあるけれど。またクマは「特別な力」の象徴でもある。シンボルとしてのクマは、知恵、洞察、内観、守護、そして癒しをあらわす。
森の中を歩いているとき、川縁を歩いているとき、もしクマの姿を見かけたら、その場所からほど遠くないところに聖なる場所があると考えて間違いはないと、教わったことがある。「その場所のスピリットがクマの姿をしておまえを調べに来ているのだ」と。
クマは敬うべきものであり、怖がらせたり、おびえさせたりしてはならない。クマを見かけたら感謝の祈りを捧げて特別な願い事をすると良いらしい。もちろんそのクマの大きさや、先方の気分のありようによっては、危険でもあるわけで、クマを見かけたらそばに近づかないのが大原則であることは西も東も北もかわりはない。秋になってクマたちが人家やキャンプ場の近くなどに食べるものを求めて多く出没する今年のような場合、それは冬が早く訪れるばかりか、かなり厳しいものになることをあらわしていると考えられる。
つまり今年の冬は寒くて長そうだぞと言うこと。
クマのことをもっとネイティブの視点から理解したいという人には、わたしはどんな本よりも『クマとアメリカ・インディアンの暮らし』(デイヴィッド・ロックウェル David Rockwel 著 小林正佳訳 どうぶつ社刊)を勧めたいと思う。再版された原本は『Giving Voice to Bear: North American Indian Myths, Rituals, and Images of the Bear』(クマに声を与える——北米インディアンの神話と儀式とイメージのなかに見えるクマたち)といってデイヴィッド・ロックウェルとジャネット・マクガーン(イラストレイター)の共著になっている。デイヴィッド・ロックウェルには『Digging for Medicine: Bears in Native American Healing Traditions』(メディスンを求めて掘る——クマたちとネイティブ・アメリカンの伝統的癒し)という論文があって、シャーマニズム研究の雑誌である「Shaman's Drum -- A Journal of Experiential Shamanism & Spiritual Healing」 の 1993年冬号に掲載されているが、こちらは翻訳されていない。
というわけでクマについての小生の雑感を終えるが、幕を引く前に最後にクマについてのジョークを紹介しておきたい。本当はカテゴリーを「インディアンは笑う」として別記事にすればよいのだが、今の季節、これぐらいの前置きがないと誰もジョークだとは思ってくれないから、ここに掲載することにした。この季節になると、必ずと言っていいほどいろんな人が口にして笑える「偽」の警告なのですが、グリズリー・ベア(灰色熊)の怖さを伝えるものともなっているようです。題して「モンタナ州漁労狩猟局から出された熊についての勧告」——
モンタナ州漁労狩猟局から出された熊についての勧告
モンタナ州、ヘレナ市、2004年、10月。人と灰色熊が遭遇する事件が頻発していることから、モンタナ州狩猟漁労局は、このたびハイカーやハンターや釣り人たちに、特に念を入れた事前準備とフィールドにおけるいっそうの用心を勧告する。とりあえず「野外活動者は着衣のうえに音のでる小さな鈴をいくつもつけるようにし、あらかじめ熊たちにおのれの存在を誇示し、連中を驚かさないよう努めなくてはならない」そしてさらに「熊との遭遇を念頭におき、必ず撃退用トウガラシ入りスプレー」を携行されたし。熊との遭遇にそなえるためには、そうした準備のみならず、できるだけ新しい熊の活動のしるしを、それもいち早く、発見することが好ましい。野外活動者はその痕跡を残した熊が黒熊か灰色熊かを、爪あとや糞から的確に判断する必要があるだろう。黒熊と灰色熊とでは、性格も行動形態もなにもかもがまるでことなっている。灰色熊の爪あとは黒熊のそれと比べると、大きくて、つめも極端に長い。黒熊の糞にはたくさんの野いちごやリスの毛がふくまれている一方、灰色熊の糞には、たくさんの小さな鈴がふくまれていて、トウガラシの臭いがぷんぷんしている。
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