目が伝えるもの
昨日の新聞に『あたりまえだけど大切なこと--子どものためのルールブック』(ロン・クラーク著 亀井よし子訳)という本の広告が出ていた。草思社刊、1470円(税込み)で「発売早々10万部突破!」とある。アメリカの小学校の先生が子供たちに教えた50の礼儀作法をまとめた本で、「大人の質問には礼儀正しく答えよう」「人の意見や考え方を尊重しよう」といったあたりまえだけれども大切な教えが集められているらしい。わたしはこの本を手に取ってもいないし、読むこともないだろうと思われるのだが、「すべてがそのまま日本の子どもにもあてはまる」(同書編集者の弁)と書かれてあり、そのなかの教えのひとつ、
「相手の目を見て話そう」
というルールがわたしにはひっかかったので、今日はそのことについて書く。実は、WPPD2004を前にして、ネイティブ・アメリカン・ピープルと呼ばれる人たちとの付き合い方について、いくつかまとめておこうと思っていて、結局目的は果たせなかったことに、この「相手の目を見て話すことのタブー」について、覚えておいてもらいたいことがあったのだ。
アメリカ・インディアンの人たちにとっては「相手の目を見ること」は、たいへんに不躾(ぶしつけ)なこととされている。子供たちは絶対に相手の目をのぞき込んだりしないよう教育されて育つ。これはおそらく世界中のネイティブ・ピープルに共通のことでないかとわたしは想像している。
もちろん、相手の目をのぞき込むことがまったくないかといえばそうではない。目をのぞき込むことはある。誰かが誰かの目をのぞき込むのは、たいてい特別な場合に限られている。特別な場合とは、
(1) バッド・メディスンをしかけるとき。
つまり「呪いをかけたり」「その人間に悪い事を起こしてやろう」という黒魔術的な動機があるとき。
(2) グッド・メディスンをあたえるとき。
これはシャーマンとかヒーラーとかメディスンマンやメディテスン・ウーマンと呼ばれる職能の人たちが、患者を精神的肉体的に癒そうとするとき。
そして (3) は、男女が「まぐわう」とき。
この三つだ。三つとも大人のシリアスなビジネスであり、子どもたちはだから人の目を見ないように教育されて育つ。エルダーの話を聞くときでさへも、相手の目を直接のぞき込むようなことはないとされる。相手の目を見ることは、見る側の心ににはじめからある種の意図があると考えられているからなのだ。
こういう育ち方をする子供たちにとって「相手の目を見て話す」ことは容易なことではない。目に物を言わせて人に働きかけるるのは、特別な場合に限られるのが、「白人の世界」と「インディアンの世界」の大きな、そしておそらくはかなり決定的な違いなのである。
白人の世界にあるもののすべてが良いものとは限らないのである。
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Comments
いつも本当に勉強になります。
Posted by: Kazu | Thursday, July 29, 2004 02:37 PM