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Wednesday, May 05, 2004

平安時代は「平和も安心もない時代」でした

「蝦夷の地」に争乱の世紀
鉄やじり、縛られた人骨出土 (05/05 06:40 朝日新聞asahi.com より)


 青森県八戸市の平安時代後期の集落跡・林ノ前遺跡(10〜11世紀)から、前例のない数の鉄のやじりと縛られた人骨などが出土した。激しい戦いの跡と見られる。蝦夷(えみし)の地とされた北東北から北海道南部の集落は、近年の発掘でこの時期百数十年にわたり、平地を避けて山頂や環濠(かんごう)の中に作られていたことが判明しており、今回の発見でこの特異な集落形態は敵の襲撃に備えたものだったことが確定的になった。吉野ケ里遺跡で知られる倭国(わこく)大乱や戦国時代に匹敵する長期の争乱社会が見えてきた。

 発掘は青森県埋蔵文化財調査センターが03年まで4年間行った。やじりは約200点、遺跡全域でまんべんなく見つかった。戦後回収される貴重品だったやじりの出土例としては空前の規模。人骨は10体見つかったが、埋葬されたものはなかった。両手・両足を縛られた全身骨1体と、頭骨だけが3個も見つかった住居もあった。同センターは襲撃を受け、激しい戦いの末に放棄された集落と見ている。

 林ノ前遺跡は八戸市の中心部から北西に約5キロ、切り立ったがけの上にある。130軒の竪穴住居が出土した。山頂には東西30メートル、南北70メートルの環濠を設けた支配者の居住区が確認された。

 盛岡市付近から北海道南部にかけて、山の上に築いたり、環濠や土塁を巡らしたりする特異な集落の発見が90年代から相次いだ。約50にのぼる。一方、通常の平地の集落はこの時期約150年も発見例が途絶える。特異な集落を「具体的な戦いの跡がない」として宗教的施設などと見る説もあったが、今回の発見は、戦乱社会の敵に備える「防御性集落」と見る説に決定的な材料となった。

 朝廷は馬や砂金などを産する東北地方を支配しようと8〜9世紀に武力進出を繰り返すが、盛岡市付近で停滞。10世紀になると、直接支配でなく朝貢を求める政策に転じる。従来の通説は、この政策転換後、秋田、岩手で前九年合戦(1051〜62)が起こるまで、この地域は平和が続いたとしてきた。防御性集落は政策転換後の10世紀後半に登場し、奥州藤原氏の支配が及ぶようになる12世紀に姿を消す。

 調査終了後、県道が開通し、遺跡は周辺の一部を除いて残っていない。

■工藤雅樹・東北歴史博物館長(考古学)の話
「無防備では危険で生活ができず、防御性集落を営まざるをえない社会があったことを実証する初の発見だ。この時代の蝦夷の地は平和だったと考えられてきたが、朝廷が歴史の編纂(へんさん)をやめたために記録が残っていないだけだ。大軍を差し向ける代わりに、朝廷は「夷(い)をもって夷を征する」政策をとった時代で、武器や食料の援助をめぐる朝廷側とのパイプの奪い合い、交易の富の争奪などが原因となり蝦夷内部の戦いが続いたのだろう。林ノ前での戦いは、前九年より少し早い11世紀の前半、集落の連合体同士といった規模が考えられる」

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