コヨーテおじさんとぼく
上の図はコヨーテの足跡、左が前足、右が後足
「火を盗んだコヨーテ」のお話を読んでくれた人のコメントに「これは、コヨーテから聞いた話ですか?」というものがありました。これでありありと思い出したのですが、わたしは沙漠でコヨーテおじさんとしばしば出会いました。とりわけ最初の出会いは記憶に焼きついています。あれはアメリカに暮らしはじめて三年ぐらいたったときのことです。わたしはアメリカの沙漠につかれたように暇を見つけてはひとりであちこちと通うようになっていました。カリフォルニアとネバダの州境に近い大きな沙漠のなかでのことです。
その沙漠にはいって二日目の午後遅くのことでした。わたしは小さななだらかな丘の頂にぽつんとひとりで腰を降ろして、目が良ければどこまでも見える遠くまで広がる景色を独り占めにしていたのです。その山の頂からは、なだらかに大地が広がっていて、遥か遠方に遠く連なる山並みのあいだには、視界をさえぎるようなものはなにひとつありません。何十キロ四方に人の気配は全くありません。そこで素っ裸になって走り回ろうが、なにをしようが誰にも見られる心配もまるでない、とてつもなく心落ち着く時間を持ったのです。というより、沙漠では往々にして時間が静止するような感覚に襲われます。
夕方が近づいていて、山々の稜線がはっきりとしており、空気が紫色に染まって、こんなに美しい場所が地上に存在したことを誰かに感謝したい気持ちになっていました。沙漠のなかにいると、そうした不思議な心洗われるような感覚にたびたび襲われます。観光旅行でただその中を通過するような旅ではなくて、時間もなにも気にしないで、ただ沙漠の与えてくれるそうした感覚にひたるために、わたしは沙漠にかよいつづけたのです。
LSDのトリップは、内側で起きていることが外側の世界とシンクロしているような錯覚を与えたりしますが、沙漠が与えてくれるトリップはちょうどその正反対のものと言っていいかもしれません。つまり沙漠で起っていることが、そのなかにいる人間の内側でも起っているのです。おそらく、サイケデリックな感覚の極致のようなものが、沙漠がわたしにたびたび味あわせてくれた体験であるといっていいでしょう。
人が沙漠を受けいれるまでには、かなりの時間を必要とします。よく「友だちになるには時間がかかる」と人と人との友情関係ができあがるまでのことをいったり、「きまるには時間がかかる」とストーンした感覚を身につけるまでのことをいったりしますが、同じことが沙漠体験にも言えます。自分のことを言うと、沙漠に受けいれられた、という感覚を持てたのは、沙漠にかよいはじめて一年近くたったときのことでした。分けもわからず思いっきり泣いたことを思い出します。涙があふれてとまらなかったのです。まあ、このときの話は、今回の主題とはずれるし、機会があればお話として語って聞かせたいと考えているので、今日はコヨーテおじさんに話を戻しましょう--------
あのときも、沙漠の風景のなかで起っていることが自分の内側で起きているような感覚をわたしは味わっていました。自分の意識がその沙漠いっぱいに広がっていって、見えている空間すべてが自分の内側にあるもののような、また、自分がとてつもなく巨大な人間になったような気分にとらえられていました。そのときのことです。わたしは遠くの方で動いている小さな黒い点の存在に気がつきました。黒い点は、なだらかに広がる大地の遠くのはずれから、まっすぐにこちらにむかって動いてくるのです。
時間にして30分ぐらいわたしはその黒い点を目でおいかけていたでしょうか。ある瞬間、それが四本足の人であることに気がつきました。それは実に独得の歩き方でした。スタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタと、ほとんどリズムを崩しません。彼とわたしのあいだの距離が、100メートルぐらいになったとき、スタスタスタスタスタスタスタスタスタ・スタと、彼が足をとめました。彼はわたしをじっと見つめました。われわれは正面から目を見合わせました。好奇心に満ちた目。時間にして30秒ぐらいだったでしょうか、やがて彼はなにごともなかったかのように、わたしから20メートルほどのところを歩いてそのまま通り過ぎ、途中で一度こちらを振り返るためにたちどまったあと、またスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタスタと姿を消しました。
コヨーテがひとりで北米大陸を旅をするという話をわたしはしばしば聞かされましたが、そのことを確信したのはそのときからです。あのときわたしたちは沙漠の意識のなかでなにかを話しました。コヨーテは犬ともオオカミともキツネとも決定的にちがう不思議なリアリティを持ってそこに存在しました。よくトリックスターという言葉が使われたりしますが、どこか抜けているけれど実際はとてつもなく賢い人としてのコヨーテの術中に、あれ以来はまってしまっているのかもしれません。わたしの耳の底にはあのおじさんの歩く音が、今もしっかりと残っています。
あのコヨーテは、いったい誰だったのだろう?
「Sharing Circle (Infos)」カテゴリの記事
- トンボから日本人とアメリカインディアンのことを考える(2010.09.03)
- ジャンピング・マウスの物語の全文を新しい年のはじめに公開することについての弁(2010.01.01)
- ヴィレッジヴァンガード 下北沢店にあるそうです(2009.12.30)
- メリー・クリスマスの部族ごとの言い方
(How to Say Merry Christmas!)(2009.12.24) - 縄文トランスのなかでネオネイティブは目を醒ますか 27日 ラビラビ+北山耕平(2009.12.16)
The comments to this entry are closed.
Comments
素敵なお話しをありがとうございます。
耕平さんのパワーアニマルなのでしょうか。
コヨーテおじさんの足音・・・・足音を聞こえるように歩いてきたのは、耕平さんに聞かせるためだったのでしょうか。
Posted by: j-tenten | Monday, May 31, 2004 12:55 AM