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Wednesday, May 05, 2004

日本列島千年紀は争乱の時代

ミレニウムをランダムハウスの辞典でひくと「キリスト教 至福千年期 千年王国:キリストが再臨し最後の審判の前日までこの世を統治するという千年間 (いつか来るとされる)正義と平和が世を支配する至福の時代 黄金時代」とある。もとより日本列島(弓の島)も南北アメリカ大陸(亀の島)もキリスト教国などではなかったし、誰もそれが千年紀にあたるなどとは認識もしていなかったにちがいない。亀の島ではまだ縄文時代が続いていたわけだが、日本列島では−−とりわけ本州島の東北地方においては−−縄文的なライフスタイルを色濃く引き継いだ「エミシ」と呼ばれる人たちと、弥生的なライフスタイルを持つ人たちとのあいだで、「生き方」の決定的な違いによる、圧倒的な軍事力による侵略と征服の時代が最終段階を迎えていたと、わたしは認識している。

そのころをイメージしていただくために「Native Time」Version 3 (『ネイティブ・タイム—先住民の目で見た母なる島々の歴史』地湧社刊 2001年刊行) の日本列島における西暦1000年から1051年までの部分をここに再録してみよう。できうれば、これに目を通されてから、もう一度うえの<「蝦夷の地」に争乱の世紀>という本日付の朝日新聞の記事をお読みいただきたい。学校では教わることのない日本列島の歴史の一部が垣間見れるかもしれません。日本列島の歴史を逆さまに見ると、今起っていることのはじまりが見えてくるはずだというのが、小生が今も『ネイティブ・タイム』のアップデートを続けている理由でもあります。

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999

 富士山が噴火した。たいそうな噴火だったらしく、戦乱や悪疫の流行する兆しではないかと都人は驚愕し、畏れおののいた。


1,000

 千年紀。だがまだ日本列島では誰も千年紀を意識していた人たちはいなかった。このころを前後する五百年間ほど、陸奥国の最深部、ヤマト中央政府の手がまったく届いていなかった現在の青森県浪岡町付近に、この時代としてはおそらく最大級の環濠集落があったことが発掘でわかっている。それは、南北約九十メートル、東西約六十メートル、広さはおよそ三千四百平方メートルある臨戦型の砦であり、周囲を幅平均六メートル、深さ四メートルほどの濠が取り囲み、その外壁にはさらに高さ一メートルほどの土塁が築かれている。濠の内側の集落には百六十軒ほどの縦穴住居が建ちならび、なかには集会場のような大型のロングハウスもあったし、精錬所と見られる鍛冶工房もあった。おそらく蝦夷【2字ルビ・えみし】たちが守りとおそうとした最後の日高見国の遺跡ではないかと想像される。この年、源満政が陸奥守に就任した。


1,001

 出羽守藤原義理(義雅)が出羽城介の源信親を殺害する事件が発生した。出羽守が、在任中頻繁に、地元で産出する馬や絹を京都に送っていたことを出羽城介に咎められたことによるものか。平季信【2字ルビ・■■■■】を急きょ出羽守に任命した。


1,004

 橘道貞が陸奥守に任じられ、平季信も出羽守に再任した。


1,005

 朝廷の内裏が焼け落ちた。三種の神器のひとつである神鏡も黒こげになった。安倍晴明が死んだ。
 晴明が宮中に参内したときの話として、以下のようなものが残されている。まるで幻覚性植物によるトリップのような話だが、その日は、いわゆる「庚辰の夜(この夜眠ると人身にいる三尸【2字ルビ・さんし】という虫が人の眠りに乗じてその罪を天帝に告げるとされていた)」なので、若い殿上人がたくさん集まって、夜を明かすためにいろいろな遊びをしたそうだ。晴明もその席に呼ばれていた。帝【1字ルビ・みかど】が「なにかおもしろいことをしてみせよ」と言ったので、晴明は「それでは算術で今夜の興を盛り上げ、人々を笑わせ申し上げましょう。たとえそうなっても決しておくやみなさりませんように」と応えたという。すると帝が「算術で人を笑わすなどということは、どう逆立ちしてもできまい。もし仕損じた場合にはふるまい物を出せ」といい、晴明は「かしこまりました」と応え、おもむろに算木を取り出して、それを一同の前にさらさらと置き並べた。すると目に入るものは何もないのだが、なんとなく座中のみんなはおかしくなって、盛んに笑いはじめた。笑いをとめようとするけれどもとめることができない。わけもなく笑いがこみあげてきて、あごのはずれるほどの大声で笑い、腹をかかえて、最後にはことばも出ないほどで、腹筋がよじれて切れるかと思われるほどになって笑いころげたが、それでもどんどんおかしくなってしまった。一同は涙を流してもうたくさんだと手を合わせて晴明に頼みこんだ。「それではもう笑うのに飽きられたでしょうから、すぐにおとめいたしましょう」といって、算木を取り除いたところ、今までのおかしさが一瞬にしてさめて、何事もなかったかのように元通りになったので、みなはこれにはびっくりして感嘆したという。


1,009

 藤原済家が陸奥守に就任。高麗で軍事クーデターが起きた。


1,010

 契丹が高麗に攻め入った。


1,012

 藤原兼光が鎮守府将軍に、源親平が出羽守に就任した。契丹が高麗に攻め入った。最高実力者の左大臣藤原道長が、比叡山延暦寺に受戒にでかけた。普通なら歩かなくてはならない山道を馬に乗ったまま登ると、突然いずこからともなく石が投げつけられ、しかも夕だちにも遭ってずぶ濡れとなり、さんざんな目にあった。それから数日後、比叡山の「山王」の祟りで、悩気【2字ルビ・のうき】が重くなり、さらに三日後には邪気憑【3字ルビ・じゃきつき】となり、山王の地主神が憑いた。同じころべつの女人と僧に山王が取り憑き、その託宣によって祟りであることがわかったという。諸国の寺社において、読経、修法、陰陽師祈祷、絹五十疋の解縛文厭術、加持、呪詛、参詣などありとあらゆるものがおこなわれ、ひと月後にやっと回復した。


1,014

 朝廷の内裏が焼け落ちた。平維良【3字ルビ・たいらのこれよし】が鎮守府将軍に就任した。


1,015

 春から夏にかけて疫病が都に蔓延した。京都市中に死人が増えて、死体があちこちにそのまま放置されていたらしく、この年、そうした放置死体の「清掃」が「使いの官人」に命じられている。「使いの官人」とは検非違使庁と呼ばれた天皇家に直属する警護機関の者で、濫僧や屠者と呼ばれたひとたちを雇って京都市中の「清掃」にあたらせることになる。山背国の出雲郷−−出雲(伽耶)系先住民の居留地−−で疫神を鎮めるために政府主催の御霊会が催され、この御霊会の最中に賎民たちが乱闘事件を起こした。前年に焼亡した内裏が完成し、そのふた月後にまた火が出て焼け落ちた。


1,016

 藤原貞仲が陸奥守になり、平維良【3字ルビ・たいらのこれよし】が鎮守府将軍に再任された。


1,017

 大中臣宣茂【5字ルビ・おおなかとみしげもち】が出羽守に就任した。左大臣の藤原道長の屋敷に盗賊が入り、黄金二千両(およそ一億五千万円相当の砂金)が盗まれるという事件が起きた。富士山、北方の三か所が噴火した。参拝者が行かなくなった。火山活動は活発で、常に白煙をのぼらせ、夜間には遠目でも火が見えた。噴火は数年続いたらしい。藤原道長が関白になった。


1,018

 契丹軍十万と高麗軍二十万八千三百の兵が激突した。おなじころ本州島東北部では陸奥守の藤原貞仲と鎮守府将軍の平維良【3字ルビ・たいらのこれよし】が、雑事をめぐって合戦になっていた。平永盛が鎮守府将軍の座に就いた。


1,019

 契丹軍十万をほぼ全滅させ、高麗が息を吹き返した。契丹は高麗侵攻を一旦あきらめ、高麗は旧高句麗の領土を四百年ぶりに奪還し、両国は平和修好条約を結んだ。
 この年の春先、アムール川の下流域から沿海州一帯で勢力をつけつつあったツングース系の女真族が、五十隻あまりの船を連ねて対馬、壱岐、筑前に来襲した。対馬では銀鉱山が焼き打ちに遭い、壱岐では国守をはじめとする二百三十九人が拉致されて、島に残ったのはわずかに三十五人という惨状だった。この海賊たちはその後、筑前の志摩郡を襲って百十二人を殺害し、四百三十五人を拉致し、牛馬七十四頭を被害に遭わせたものの、やっとのことで追い払われて、仕方なく博多湾に浮かぶ能古島【3字ルビ・のこしま】を占領して襲撃の準備を整えた。そして博多に上陸しようとしたので、太宰権帥【4字ルビ・だざいのごんのそち】藤原隆家らが警固所の兵を率いて防戦し、激しい戦いののちにこれを撃退した。海賊たちの風体は異様で、牛や馬を殺して食べた。拉致した住民のうちの老人や子どもや病人は手当たり次第に海へ投げ捨てたりして殺戮した。のべ十六日間にわたる被害は、死者三百七十人、捕虜千二百八十人、牛馬三百九十頭にのぼった。結局このときの海賊たちは、つぎには高麗に向かい、その沿海の島陰に隠れながらそこでも侵略を続けたために、高麗の水軍によって滅ぼされた。
 崩壊しつつあった契丹からの難民や移民が季節風にのって大幅に増加した。源頼信が石見守に任命された。橘則光が陸奥守になった。藤原道長は出家した。


1,020

 南西諸島民が薩摩に来襲した。大江時棟が出羽守に任命された。


1,021

『更科日記』のこの年の記述の中に「山のいただきのすこし平ぎたるより烟は立ちのぼる。夕暮は火の燃たつも見ゆ」とある。富士山は小さな噴火を続けていた。


1,023

 平孝義が陸奥守になった。


1,024

 藤原頼行が鎮守府将軍になった。


1,026

 本州島西部の日本海で大きな地震が発生したと見られ、島根県西部の海岸に大津波が押し寄せて、柿本人麻呂を祀ってあった高津川河口の鴨島という小さな島が、神社もろとも海上から姿を消した。ご神体はのちに近くの浜辺の松の枝にかかっているところが発見され、人麻呂神社も再建された。


1,027

 藤原頼行が鎮守府将軍に再任され、多米国隆が出羽守になった。


1,028

 前の上総介であり、武蔵国押領使を歴任した平忠常が、房総半島(下総国)を拠点として叛乱を起こした。平忠常は武蔵国大里郡村岡(現在の埼玉県大里村村岡)で新羅からの移民の孫(三世)として生まれた。父祖の代から武蔵国が本拠だった。やがて力を集め、武蔵国、常陸国、上総国、下総国など房総一帯に勢力を拡大し、百年前の将門同様、先住民系を集めて国家権力と対峙するようになる。房総半島は王朝国家から切り離された。ところが独立国家を作ろうとする試みは、ことごとくすべて国家によって叛乱とされる運命にあるようだ。報告によれば、忠常の兵は上総の国衙【2字ルビ・こくが】に乱入して国司や役人たちを縛り上げて占拠したらしい。役所はまったく機能しなくなり、農民は逃散し、畑も水田も荒れ果てた。検非違使の平直方と中原成道が追討使に任命された。石見守だった源頼信が甲斐守に抜擢された。陸奥守には平孝義が再任された。新羅花郎の流れをくむ源氏は、このころ本拠が摂津、大和、河内などの畿内にあって、実質的な権力者である唐系の藤原氏の傭兵として働いていた。坂東から東にかけては、百済系天皇家によって各地で専任された南西渡来の海人族系武士団の平氏が、虎の威をかる狐ではないが、東国各地に集団居住していた先住系の俘囚の末裔たちを抑え込んで、まだかろうじて支配層階級としての力をもっていた。


1,029

 日高見国の東の蝦夷【2字ルビ・えみし】の偉大なチーフに、安倍忠良【4字ルビ・あべのただよし】という人物がいて、その子が、陸奥国奥六郡(胆沢、和賀、江刺、稗貫、志波、岩手の各郡)の俘囚長の安倍頼良【4字ルビ・あべのよりよし】であり、さらにその頼良の子として、この年に貞任【2字ルビ・さだとう】が誕生している。実際は次男だったが、長男の良宗【2字ルビ・よしむね】が盲目であったため、貞任が嫡男の役を果たすことになったのだった。
 平忠常追討の報告をしなかったとして、検非違使の中原成道が罷免された。


1,030

 安房守の藤原光業が、平忠常の乱に驚きあわてて仕事をほうり出して京都に戻ってしまった。政府は、甲斐守の源頼信と坂東諸国の国司たちに平忠常の追討を命じた。検非違使の平直方はぐずぐずして出発が四十日も遅れたため召還された。平直方の娘は源頼信の「室」の一人だった。「室」とは「奥方」のこと。一夫多妻があたりまえとされた時代だった。


1,031

 陸奥国、貢上の砂金一両につき絹一疋を代納させられた。源頼信が甲斐国に到着した。そのすごい軍容に恐れをなして平忠常はわざわざ二人の子と三人の郎党を連れて甲斐国にまで出向き、源頼信に降服した。頼信が平忠常を連行して京都に向かう途中、美濃国に入ったところで、忠常は病死。五十六歳だった。平忠常の独立国家の夢は泡と消えた。頼信はやむを得ず忠常の首だけを携えて上洛した。平忠常の乱の頼信によるこのときの平定は、もともと先住蝦夷【2字ルビ・えみし】系の俘囚の末裔や新羅系移民や高句麗系移民の子孫の多かった東国への源氏の進出の足場を築くことにもなった。
 京都で不審火が多発した。その高さ約九十六メートルと当時の日本の大きな建造物のナンバー・ワンを誇った出雲の大神殿が、風もない日に神殿が突然振動して、北西の隅の柱一本だけを残して倒壊する事件が起きた。


1,032

 平忠常追討の功績で、源頼信が美濃守に任命された。神託だと偽って出雲の杵築社造営を企てた出雲守の橘俊孝が佐渡国に配流とされた。陸奥国の貢上砂金が免除されないことになった。出羽守に藤原為通が就任した。富士山が噴火した。


1.033

 富士山が噴火した。


1,034

 高麗人が大隅に漂着した。平忠常の乱の影響が少なくないため、上総国の四か年の官物が免除された。陸奥守に藤原兼貞が就任した。


1,036

 藤原頼宣が陸奥守に任命された。


1,037

 契丹と高麗が戦争をして、高麗が負けた。高麗で差別されていた白丁が自分たちのことを倭人と名乗って契丹に協力した。契丹人は自分たちを高句麗の継承者として領土の占有権を主張。この前後に高麗からの難民が多く日本列島に流入した。


1,039

 源頼義に、息子・義家が誕生した。頼義は、石清水八幡宮に立派な男子を授かるように祈願していた。義家は幼名を「源太丸」もしくは「不動丸」といった。源太丸は源氏の棟梁であった源頼信の孫にあたっていた。


1,040

 源頼清が陸奥守になった。朝廷の内裏が焼失し、神鏡がまた黒こげに。京都の町で放火が頻発したために検非違使に毎夜の巡視が命じられた。


1,045

 源氏の棟梁の孫・義家がこの春、京都の石清水八幡の神前で、七歳にして元服した。そのために源義家はのちに「八幡太郎」と名乗ることになる。


1,048

 太宰府が新羅暦と宋暦を献上した。鎮守府将軍の源頼信が八十一歳で死に、息子の頼義が家督を相続して源氏の棟梁となった。頼義はこのころに相模守をつとめており、その折、相模一の宮寒川神社(神奈川県寒川町)に八幡大菩薩が源氏の氏神として導入された。殺傷を仕事とする武家集団の源氏が八幡神を精神的な支柱に据えた理由は、実際の殺傷にともなうヘビーな感覚を「放生会」を営むことでいささかでも和らげることが可能だと信じたからだし、ケガレや殺傷を肯定する論理を、神仏習合という精神世界の潮流が与えたからだった。


1,049

 平重成【2字ルビ・しげなり】が出羽城介【4字ルビ・でわじょうのすけ】に任命された。


1,050

 藤原登任【2字ルビ・なりとう】が陸奥守に、源兼長が出羽守に、平重成はかねてより空席であった秋田城介【4字ルビ・あきたじょうのすけ】も兼任することとなった。
 陸奥国の「奥地」に住む蝦夷【2字ルビ・えみし】が蜂起した。この「奥地」とは本州島東北部にとどまらないようだ。北海道島、サハリン島、沿海州も、この「奥地」に含まれるらしい。陸奥国を代表する俘囚の一族であり、都人からは熊の子孫たちと恐れられた、偉大な長に率いられる安倍一族は、いわゆる日高見国を構成していた先住民の一族のひとつであると同時に、こうした北方のネイティブたちの動きとも無関係ではなかった。陸奥の蝦夷【2字ルビ・えみし】の偉大なチーフの息子であり、俘囚王でもあった安倍頼良が、新任の陸奥守の藤原登任や秋田城介平重成と戦って勝利を収めた。


1,051

 再び安倍頼良が叛乱を起こして、北上川中流域のいわゆる「奥六郡」(胆沢、和賀、江刺、稗貫、志和、岩手の各郡)を制圧した。南は衣川が軍事境界であり、東は気仙郡の金氏一族と対立し、北にはもうひとつの安倍勢力が存在した。このもう一つの安倍勢力は、チーフを安倍富忠といい、金【金偏に「色」】屋部【3字ルビ・かんなやべ】、仁土呂志部【5字ルビ・にとろしべ】、宇曽利部【4字ルビ・うそりべ】の三地域の俘囚を支配していた。同じころ、和賀郡、胆沢郡の西の端にそびえる山々の向こう側の横手盆地一帯では、この地域一帯の俘囚の主である清原氏が、山本郡、平鹿郡、雄勝郡の山北三郡を中心に支配をおこなっていた。そしてこの年、安倍頼良が奥六郡の南の境界である衣川から出て、その支配域を拡大する動きに出たわけだ。
 陸奥守だった藤原登任【2字ルビ・なりとう】は、出羽城介の平重成らを先鋒として数千の兵で安倍頼良を攻撃したものの、玉造郡鬼切部(現在の宮城県鳴子町)における戦で、再び大敗を喫した。世に名高き「前九年の役」、別名を「奥州十二年戦争」という戦いの、これがはじまりとされる。
 藤原登任の家来として陸奥国に下向して暮らしていた坂東武士の藤原経清【2字ルビ・つねきよ】は、すっかり陸奥の風土が気に入って、安倍一族のチーフ頼良の娘を娶ってすでに子をもうけていたために、鬼切部の戦いでも安倍一族の人間として参戦した。
 京都の朝廷はあわてて新羅系軍事貴族(花郎)の源頼義を陸奥守に任命した。摂津国多田にいた源頼義は息子の義家を連れて陸奥に下向する。若大将の義家は弱冠十二歳だった。
 この年はシャカムニ・ブッダが入滅してから二千年目にあたるとされ、像法の終わりの年と都の貴族階級は認識していた。仏教徒の歴史観では正法が千年、像法が千年続いたのちに末法の世に入って「仏の教えは消滅する」と信じられていたのだった。

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  『ネイティブ・タイム—先住民の目で見た母なる島々の歴史
  北山 耕平 (著) 価格: ¥5,040 (税込)
  単行本: 925 p ; サイズ(cm): 182 x 128
  出版社: 地湧社 ; ISBN: 4885031583 ; (2001/02)

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