ブギー・ウーマン(物語)
きたないのがすきなこどもたちを持つ両親のためのお話
部族名不明
再話 北山耕平
ブギー・マンは、アメリカ・インディアンのこどもなら、しらな
いものがいないくらいゆうめいなかいぶつです。ブギー・マンは
おとこですが、これがおんなのかいぶつになるとブギー・ウーマ
ンとよばれます。
ブギー・ウーマンは、せなかにおおきなバスケットをせおってい
るので、「バスケットのおにばば」ともよばれ、こどもたちから
はたいへんにこわがられています。
きたないのがすきなこどもたちを持つ両親のためのお話
部族名不明
再話 北山耕平
ブギー・マンは、アメリカ・インディアンのこどもなら、しらな
いものがいないくらいゆうめいなかいぶつです。ブギー・マンは
おとこですが、これがおんなのかいぶつになるとブギー・ウーマ
ンとよばれます。
ブギー・ウーマンは、せなかにおおきなバスケットをせおってい
るので、「バスケットのおにばば」ともよばれ、こどもたちから
はたいへんにこわがられています。
The Indigenous Language Institute(先住民言語研究所)という研究機関が、アメリカのニューメキシコ州のサンタフェという都市にあります。北アメリカ大陸の先住民族のオリジナルの言語と共同体と文化を守るための闘いを続けている非営利の組織です。ここの資料に興味深いことが書かれていて、それが今のアメリカ・インディアンだけでなく、かつて「亀の島」と呼ばれた北米のネイテイブ・ピープルの置かれている現状を伝えていると思われるので、日本語にして書き写しておきます。なにしろ、母なる自然と同様に、母なる言語というものは「ひとたび失われてしまうと、永遠にとりもどすことができないもの」なのですから。
*もともと「300」あったとされるオリジナルの北米先住民の
言語のうちで現在も残っているものはわずか「175」のみ。
*そのうちの「125」の言語は、その言葉を習っている子ども
が存在しない。
*「55」の言語は、その言葉を話す長老が「1人から6人」し
かおらず、この人たちが亡くなると、その言語も失われてしまう。
*このままなにも手を打たなければ、今後50年で残るであろう
言語は「20」まで激減する。
ブラックフット一族につたわるお話
再話 北山耕平
この せかいが できて、
まだ まもない ころの ことです。
おとこの かみさまと、おんなのかみさまが、
さんぽをしながら はなしをしていました。
「よの なかの きまり と いう ものを
つくらねば なるまい。」
「それはよいことだわ。で、どうするの?」
「そうだな。わしが いいだしっぺになろう。」
「そうね。そのかわりに、きめるのはわたしの しごとよ。」
そうやって はなしながら ふたりは あるいていきます。
本日3月30日に、小生が翻訳した『聖なる言の葉――ネイテイブ・アメリカンに伝えられた祈りと願い』(スタン・パディラ著 マーブルトロン発行 中央公論新社発売)という書籍が発売されます。著者のスタン・パディラはカリフォルニアに在住するヤキ一族のネイテイブ・アメリカンの作家・編集者・デザイナーで、これもわたしが翻訳した『自然の教科書――ネイテイブ・アメリカンのものの見方と考え方』(マーブルトロン発行 中央公論新社発売)の編者だった人物です。
『自然の教科書』はアメリカ・インディアンの考え方や世界の見方などを、19世紀末から20世紀初頭にネィテイブの人たち自らが書き記したり話したりした記録のなかから、重要な言葉や表現を集めてきて構成したもので、80年代にはチェロキー国の学校で副読本として使われていました。
アメリカ・インディアンの世界でも、「インディアンであるとはどういうことか?」について、皮肉にも学校で英語で書かれた教科書をもちいて学ばなくてはならない時代になっているのです。そしてその本は、インディアンの人たちと同じように、大地との絆を失いつつあるわれわれ日本の次ぎの世代にとっても役に立つものなのです。わたしたちが大地とひとつになって生きていた時代のことを語ってくれる年寄りなどもうどこを探してもいなくなっているのですから。
そして今回書店に並ぶ『聖なる言の葉――ネイテイブ・アメリカンに伝えられた祈りと願い』は、彼らが日々の暮らしのなかで祈ってきたさまざまな土地の人たち(亜北極圏のアリュートから中米のマヤの人たちまで)の言葉を集めて編集したものです。
「祈る」というと、仏教の「お経」とかキリスト教の「祈りの言葉」だとか、イスラムの「コーラン」だとか、神道の「祝詞」といったものを想像されるかも知れませんが、ネイテイブ・ピープルの祈りというのは、そうしたある意味で抽象的な、「わかってもわからなくても何回も口にしているうちになんとなく理解できてくるようになる文字の羅列」ではありません。それは、頭でつくられたというより、ハートから流れ出てきている自然な言葉なのです。
祈りで思い出すのは、今は亡きローリング・サンダーの言葉です。「その気になれば誰だってスピリチュアルな人間になれる」と、彼が話してくれたことがあります。そのためになにが必要かというと、なによりもまず「自分の考え方を作りなおすことからはじめなくてはならない」と。彼はこうも言いました。「わしは自分の師から、一日二十四時間ことごとくすべて祈りとなすようにと言われた」
一日二十四時間を祈りとする! 大昔の人たちはそのことがわかっていたから、そうした祈りの言葉を使うことで肉体的な、社会的な「病(やまい)」をどうやって癒すかも知っていたのです。ここで「祈りの言葉」が重要になってきます。それはお経である必要もないし、題目や祝詞である必要もありません。地球から湧き出す清らかな泉のような言葉があればいいのです。祈ることでまずは自分のなかにある思考のゆがみをなおした人だけが、自分の家族や、共同体や、国を健康にするために、自分の力を発揮できるのですから。
ネイティブ・ピープルが大昔から口から耳へ、頭からハートへと伝えてきた祈りの言葉がこれほどまとまって紹介されるのははじめてかもしれません。心の汚れを掃除して、曇りのない目で世界を見れるようになるために、あなたの内側を、たくさんの地球そのものから生まれた祈りと願いの言葉で満たしてください。
『聖なる言の葉――ネイテイブ・アメリカンに伝えられた祈りと願い』が、あなたの一日二十四時間を祈りとするための道具になれば幸いです。
いちごは、なぜ、いかにして、つくられたか?
部族名不明
再話 北山耕平
地球がまだ若かったころ、この地球には最初の男と最初の女の
夫婦が一組と、彼らの友人でこの地球を作った張本人の神さま
しか暮らしていませんでした。最初の男と最初の女は湖の近く
の家で幸せな生活を送っていて、地球を作られた神さまはとき
どき夫婦の家を訪れては楽しい時間を過ごしていたそうです。
幸せに暮らしていたといっても夫婦ですからときどきささいな
ことで喧嘩をしますよね。そういうときにはたいてい最初の女
の方が勝ちました。そしてある日、最初の夫婦が歴史に残るぐ
らいの決定的な喧嘩をしてしまいます。はじまりはいつものよ
うにささいなことからだったのですが、次々と喧嘩の輪がつな
がって、しまいには最初の喧嘩がどんな理由で起ったかもわか
らなくなるぐらい激しい喧嘩となりました。そしてとうとう最
初の女が「もー勝手におし! これからは一生、自分の食べも
のは自分で作りなさい!」そう言って、家から外へ飛び出して
しまったのです。
部族的な生活をしている人たちにとっては、毎日が美しい日だということを知っていますか? 彼らにとっては一日というのはどんな日でも、造物主からの贈り物なのです。だから彼らは天気に文句を言うことはありません。自分をとりまいている自然のことがほんとうにわかっている人たちには、季節の移ろいだとか、天気の変化だとかはどれも、このわたしたちの惑星が存続するためには絶対に必要なものであることがわかっているのです。
すべてを正しいか間違っているかで判断し、なにごとにおいても完全主義で、世界は操作できると幻想を抱いた「今日より明日を物質的に豊かにしようとする生き方の人たち」は、他の人たちよりも実のある生活を送る目的のためになら、「自然だってコントロールして当然だ」といつしか思いこむようになります。そういう人たちは、生きているわたしたちのなかにあるいのちを創造したのが誰だったのかを、気がつけばきれいに忘れていたりします。
いのちは、造物主からの贈り物。毎日の天気とおなじように、それはみな美しく、可能性にあふれています。あたりまえだと思っているものに感謝をあらわすことが、新しい一日のはじまりなのかもしれません。
この美しき日に 感謝しようではないか。
このいのちに 感謝しようではないか。
生きることを可能にしてくれる水に 感謝しようではないか。
われわれを守り育む偉大な曽祖母の地球に 感謝しようではないか。
――ラコタ一族の日々の祈り
タスカローラ一族につたわるお話
再話 北山耕平
むかし、あるところに、ひとつの村がありました。
村にはトウモロコシの畑があって、毎年たくさんのトウモロコ
シがとれました。
来る年も、来る年も、たくさんのトウモロコシが、とれるので
いつしか村人たちは トウモロコシが毎年たくさんとれるの
があたりまえのように、おもいはじめました。そうなると、ト
ウモロコシの畑は、ほったらかしです。もうだれも わざわざ、
雑草をとろうともしません。
子供たちはトウモロコシの茎を平気で足で踏んづけて遊びます。
トウモロコシが実れば人びとはとりあえず刈りとりはしました
が、それもおざなりなやりかたで、実をつけたトウモロコシが、
あとにはたくさん残されたままです。
ラコタ一族につたわるお話
再話 北山耕平
いつものように キョロキョロしながら コヨーテおじさんが
あるいてきます。そうやっておじさんは なにかめずらしい
ものはないか、いつだって さがしているのです。
あるとき ウサギとでくわしました。ウサギさんは かわのお
おきなふくろを せなかに しょっています。
「やあ、ともだち」コヨーテおじさんが こえをかけました。
「ごきげんは いかがかな?」
「まずまず かな」と ウサギさん。
せっかくおいでいただいて恐縮ですが、この記事は、書籍化にともなって、削除されました。ここにあった文章は『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(太田出版2007年7月刊)に、加筆改訂版が収録されています。ネイティブ・ハート・ブログの書籍化については「さらにブログを続けるということ[Native Heart Friday, June 01, 2007]」のアーティクルを参照のこと。わざわざ探し出してここまでこられたのに誠に申し訳ない。願わくば拙著にて、より完成された表現媒体となったものを、お読みください。北山耕平 拝
ズニ一族に伝わるお話
再話 北山耕平
むかしむかしの せかいがまだわかかったころの はなしで
す。
あめがふりつづいていました。
いっぴきのちいさなあかいいろをしたアリさんが、じめんにあ
いたあなからそとへでてきました。じめんにはふゆのゆきがま
だすこしのこっています。あしのさきがこおるような つめた
いゆきでした。ありさんが いいました。
「ねえ、ゆきくん、きみばぼくよりもつよいんだね。ひょっと
してせかいでいちばんつよいのはきみかい?」
ゆきは こたえました。
「とんでもない。ぼくよりつよいのはたいようさんだよ。たい
ようさんがてりつけたら、ぼくなんてとけちゃうもの」
ちいさなあかアリさんは、たいようのところへいきました。
インディアンの人の祈りが、多くの場合「All My Relations」で終ることに気づかれた方も多いと思う。「オール・マイ・リレーションズ」とはラコタの人たちの言葉「ミタクエオヤシン」の英語への翻訳で、日本語にすると「すべてのわたしにつながるものたちへ」という呼びかけであり、これは、すべてのいのちあるものが大きな輪をえがいてつながっていると見る彼らの世界観のあらわれであるだけでなく、そのことをことのほか大事に思う気持ちのあらわれ以外のなにものでもない。地球に生きる自然な人たちにとって、そのいのちの輪こそが、かけがえのないほどに大切なものなのである。ここで重要なのは、そうしたなにかを大事なものと思い、いとおしいものと感じる気持ち、大切ななにか、あるいは大切な人を、心から敬い、そのようなものとして接し扱うこと、敬意を払うこと、よく英語で言われるところの「リスペクト」ということ。なにかを大事だと感じたり、大切だと思ったりすることが悪いことではないとわかっている人はかなりの数にのぼるのだろうが、実際に「敬意を払う」「尊敬する」「リスペクトする」というのが意味しているもの、あるいはそれがどのようなものなのかについて、明確にイメージできる人は数えるほとしかいない。リスペクト、それはお金で買えるようなものではない。リスペクトというのは、存在の仕方であり、それはこの世界に存在することごとくすべての種のためのものであり、赤い人、黒い人、白い人、黄色い人の四つの人種のためのものであり、わたしたちにつながるすべてのいのちのためのものである。リスペクトを示すことを、ネイティブ・ピープルは「生きていくための基本」と考えている。
アルゴンキン一族につたわるおはなし
再話 北山耕平
せのたかいアオサギがいちわ、さっきからぬまちのなかにたっ
て、みずにうつるじぶんのすがたを ながめていました。くろ
ぐろとしたかみかざりをたかくあげて かれはみみをそばだて
ています。
ちいさなにひきのイタチが かわべりまでやってきました。は
はとこの しろいイタチです。おとこのこのイタチが おかあ
さんイタチに いいました。
「なんてきれいなはねをもつヒトなんだろう!」
「あのヒトはアオサギというのよ。たかいたかいところに、あ
たまがあるの」
「そうなんだ。あのヒトは まるでおおきなきみたいに、せが
たかいんだね、おかあさん。ぼくがあのヒトぐらいせがたかけ
れば、これぐらいながれなきゅうなかわでも、かんたんにおか
あさんを むこうぎしまで ぬれずにはこんであげれるのに」
アオサギはじぶんがほめられるのをきくのがだいすきです。と
くに、じぶんのことをおおきいといわれるとうれしくてたまり
ません。
ズニ一族に伝わるおはなし
再話・北山耕平
しちめんちょうのすがたをめざとくみつけたコヨーテが、しち
めんちょうにかけよって、いいました。
「きおつけろ、そらが、おちてくるぞ。」
「どうしてそんなことがわかるの?」
しちめんちょうがいうと、
「そらのかけらがおいらのしっぽにおちてきたんだ。どこか
に、おいらのはいれるぐらいの、あなはしらないか? そらに
つぶされてしにたくはないからな。」
「わたしも、いっしょにいっていい?」
「いいともよ。」
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