わたしにつながるすべてのものたちよ!
「昔、あらゆるいのちあるものたちが人間の言葉を話し、人間たちもその言葉を理解したはるかな昔のこと・・・」そんなはじまり方をする昔話が北米大陸の先住民や、世界中のネイティブ・ピープルの間には伝えられている。われわれの知っている民話などにも動物たちが人間の言葉を話す物語がたくさんある。
動物だけでなく、植物や鉱物たちまでもが、ありとあらゆるいのちが人間の言葉を話していた時代とは、いったいどんなものだったのだろうか? これは想像するとかなり楽しい世界のようにも思える。しかし、誤解をおそれずに言うのなら、動物たちも、植物たちも、石たちですら、今なお人間の言葉を話せるのであり、問題があるとすれば、ほとんどの人間が昔の言葉を喪失し、そうしたものたちの発する言葉の聞き方を忘れてしまっていることの方にある。
われわれが子供のころから学ばされている西洋近代文明は、常に人間以外のいのちあるものと人間とを区別し、その間に線を引くことを教え続けてきた。人間と動物、人間と植物、人間と鉱物。人間以外のいのちあるものたちと人間の間の違いは、その用語にも端的に表現されている。人間だけが特別なのである。西洋の文明はなによりもまずその違いを明確にするところからはじまるからだ。
ところが、南北アメリカ大陸に暮らすネイティブ・ピープルの世界においては、その違いはそれほどはっきりとはしていない。自分と自分以外のいのちあるものたちとのあいだに、彼らは明確な線を引くことがない。このように、ほかのいのちあるものと自分とのあいだに線を引かないと言うことが、自分を浄化するさまざまな儀式などに参加するときに、「わたしにつながるすべてのいのちたちへ」「わたしにつながるすべてのものたちへ」「オール・マイ・リレーションズ」「ミタクェ・オヤシン」という挨拶の言葉を送ることとつながってくる。

ぼくが学び続けているアメリカ・インディアンのストーリーテリングにおいては、しばしばすべての登場するいのちが「ヒト」として人間の言葉を話す理由もそこにある。4本足のヒト、羽根を持つヒト、根を生やしたヒト、水のなかを泳ぐヒト、地を這うヒト。アニマル・ピープル、バード・ピープル、プラント・ピープル、フィッシュ・ピープル、スネーク・ピープル、ストーン・ピープル。ネイティブの人たちの耳には、そうした人たちが自分たちが話していた昔の言葉を話しているように聞こえているのである。
アメリカ・インディアンの多くの部族の言語には「動物」を表す言葉がないという。今から70年ぐらい前、ジェイム・デ・アングロという言語学者で物語の研究家が、北カリフォルニアのピットリバー・インディアン(現在では彼らの言葉で「Achumawi[アチュマウィ]と呼ばれる)の人たちと共に暮らしながら、彼らの言葉と、その言葉で表現される物語世界を学んでいたことがある。彼が一族の人たちに「動物」についてたずねたところ、ピットリバー・インディアンの人たちの言葉には「動物」を表す言葉がないことを教えられたという記述を読んだことがある。ピットリバー・インディアンの物語世界においては、人間と動物が渾然一体としていてそのいのちの間に一切の線が引かれていなかったのである。ただ、強いてあげるならば、「この世界に存在するすべてのいのちあるもの」を意味する「qaade-u'ade toolol aakaadzi(クァアデ・ウアデ・トゥーロル・アーカズィ)」という言葉が「動物」もしくは「生きもの」のことを言い表しているらしいと言うことであった。そしてその「この世界に存在するいのちあるすべてのもの」のなかには、「人間」も「石(鉱物)」も「植物」も当然ながら含まれており、ピットリバー・インディアンの人たちは「いのちのあるすべてのもの」とのつながりを大切にしていたという。アングロは、ピットリバー・インディアンの友人の言葉として、貴重な言葉を書きとめているので紹介しておく。
ありとあらゆるものにいのちは宿っている。木々にはいのちがある。岩にもいのちがある。山にも、水にも、そうしたものにはいのちがみなぎっている。あなたは岩のことを死んでいるものだと思っているだろうが、それはまったくちがう。岩は少しも死んではいない。それにはいのちが満ちあふれている。わたしはあなたに会いにここに来る道すがら、まわりにあるありとあらゆるものたちと話をし機嫌をうかがいながらきたし、わたしはそうしたすべてのものたちのために煙を送る。そうすることであらゆるものたちと友だちになるためだ。夜の闇の中でそっとわたしをうかがっているものたちがたくさんいることが自分にはわかっている。彼らは彼ら同士でなにごとかを語りあっているのだ。石たちは石たちで、わたしたちのように互いに話しあっている。木と木も、山と山も、互いに話しあっている。注意深く耳を傾けてみれば、その話し声が聞こえることもある。とくに夜、表にいるときになど、話が聞こえてくる。わたしはだから彼らのことを忘れたりはしない。わたしは彼らの世話をするし、彼らもまたわれわれの世話をしてくれる。
ピットリバーの人たちが、いわゆるヨーロッパ人(白人)のことを指して言うときに「inallaaduwi」という言葉を使うが、この「イナルラドウィ」という言葉は「大地から切り離されている」「根無し草」の意味であるという。それは「ほかのいかなるいのちともつながりのない存在」「ほかのいのちの存在を信ずることなく勝手に死んでいる存在」のことだ。そしてその言葉の意味するものの世界[勝手に死んでいる存在の世界]のなかを、ほかならぬ現代のぼくたちも暮らしている。
そろそろ、すべてのいのちあるものたちが人間の言葉を話していた時代に帰る道を探すときではないだろうか?
わたしにつながるすべてのものたちよ!



遺跡調査は厚幌ダム建設事業の一つ。1370平方メートルを調査し、遺物は1万4000点にも及ぶ。5月にアイヌ文化期の墓4つが見つかり、うち3号墓から副葬品が集中して見つかった。地層は1667年よりも古い。


日本国がアイヌの人たちから奪い取った大地でおこなわれたサミットが終わった。自分勝手なお祭り騒ぎに、日本の自民党政権が、アメリカ・インディアンの世界でいわれる「部族会議」「部族議会」であることをあらためて確認させられて、なんだかなーの思いに囚われた。今回のサミットをきっかけに、地球温暖化やエコの問題がいつの間にか気がつけば「原子力発電所のセールストーク」に使われるようになったことを、覚えておこう。化石燃料の使用を減少させるライフスタイルに人間の生き方の舵を切るべき時がきているのに、「太陽熱、風力、原子力」の3つを同じように「クリーン」なエネルギーとして宣伝するなんて、とても姑息なやり方であるし、悪い冗談としか思えない。結局アル・ゴアの宣伝した「不都合な真実」は地球規模の原子力発電所の拡散に道を拓いたようだ。日本国が、自民党部族会議が支配する一種の巧妙な奴隷国家であることを改めて確認したサミットの終わった夜、「
ネイティブ・アメリカンに関心を持つ人が世界的に増えてきていることは間違いないのだが、その関心の向かう先がどこにあり、なにを目的にしているのか、とても見えにくくなってきている。町を歩くと、インディアン・グッズを扱う店も良く目にするようになったし、ネイティブ・アメリカンをテーマにした書籍の数も増加してきていることがわかるし、スウェットなどのインディアンの儀式を自己啓発のツールとして使ったり、ネイティブ・アメリカン・スピリチュアリティーをエゴトリップに利用するビジネスはあいかわらず盛んなようだ。
大統領が頂点に君臨するアメリカ合衆国の子どもたちは、学校で「北米大陸」があると教わる。その場合の北米大陸は、「北」からはじまるのである。北は地図上では常に上部に当たる。この上の部分はかつては氷でわけられていて、アジアやヨーロッパと向かいあっていたのだが、北極の氷が融けはじめて、ここのところ上の境界もはっきりしなくなってきた。地図の上でカナダと呼ばれるグレイに塗り分けられたエリアを抜けると、そこにいきなり、活気にあふれ、さまざまに色分けされた50の州が出現する。そして南のリオグランデ川を越えた途端に、また色が褪せはじめる。だから合衆国の子どもたちは両親によく「北米大陸の南の境界はどこなの?」とたずねるらしい。両親も南の境界がどこかわかっていないから、たいていは肩をすぼめるだけだという。
30年ぶりのロンゲスト・ウォーク2に参加して徒歩でアメリカ大陸を西の外れから東の外れまで横断中のみんなが、多くの困難を乗り越えて最終目的地であるワシントンDCに近づいている。アメリカン・インディアン運動(AIM)の活動家(75歳)であるデニス・バンクスが先導役を務めて、今年の2月11日にカリフォルニア州サンフランシスコ市のアルカトラズ島を出発した一行は、このまま予定どおり7月11日にアメリカの首府に到着するという。