北米大陸の先住民族の呼び名のこと



 
その人たちのことを
「インディアン」と呼んでいいのですか?








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Monday, August 15, 2011

祈り わたしたちに平和を教えてください





わたしたちに 平和を 教えてください



わたしたちに 平和を 教えてください

月がのぼってくるかぎり いつまでも

川の水がながれるかぎり いつまでも

空に陽がかがやくかぎり いつまでも

草原に草が生えるかぎり いつまでも

わたしたちに 平和を 教えてください



Let Us Know Peace

Let us know peace.
For as long as the moon shall rise,
For as long as the rivers shall flow,
For as long as the sun will shine,
For as long as the grass shall grow,
Let us know peace.




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Tuesday, April 26, 2011

1000年前の東北でなにが起きていたのか?

今回の大震災は「貞観地震」と酷似しているとしばしばニュースで言われます。「貞観」は「じょうがん」と読み、ウィキペディア日本語版には「日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。859年から877年までの期間を指す」とあります。実はこの時代のことをぼくたちはほとんど知りません。最大の理由は、現在の東北地方が完全には未だ「大和朝廷の支配下に入っていなかった」からです。わかりやすく言えば「日本ではなかった」わけ。貞観と今では呼ばれるようになった時代になにが起きていたのかを、小生が20年近くの長い年月をかけてまとめた『ネイティブ・タイム−−先住民の目で見た母なる島々の歴史』(北山耕平著)を以下に引用しておきます。1000年以上も前の出来事、学校の教科書には載ることのない歴史を知ることも、役に立つことがあるでしょう。なおここに掲載する『ネイティブ・タイム−−先住民の目で見た母なる島々の歴史』は現在地湧社で刊行されている1000ページほどある書籍版(Version 3 2001年刊行)に今日までを加筆し、本文の中を訂正したり、大量に新しく書き直したりして(紙の本としては厚さの限界を超えるため)近いうちに電子書籍として刊行予定のVersion 4のものです。東北をもう一度抱きしめるために、1000年の時の流れを感じ取っていただければ幸いです。  北山耕平


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859

 武内宿禰【4字ルビ・たけのうちすくね】の末裔で南都大安寺の僧となっていた行教【2字ルビ・ぎょうきょう】が、九州島の宇佐の八幡宮に参篭中に八幡神のヴィジョンを見た。八幡神は「われが都のそばの石清水男山の峯に鎮座して国家を鎮護しよう」と彼に語ったらしい。ま、いずれにせよそのように彼は朝廷に報告したのだ。風水害により陸奥国に食料を配給した。富士山の位が正三位とあげられた。


860

 薩摩国の開聞岳が噴火し、大地を震わせて火山灰を雨のように降らせた。政府が開聞神の位を引き上げた。宇佐八幡宮三所の分霊が三基の御輿に乗せられ、神官と真言宗の僧に伴われて、豊後水道を渡り、四国島の八幡浜に上陸し、四国島の瀬戸内海沿岸を練り歩いたのち、大阪湾を経て、山城国男山鳩峰(京都府八幡市高坊)に入った。これが京都鎮護の神とされる石清水八幡宮の起源である。宇佐八幡もそうだったが、八幡というのはもともとが仏教と神道の合作だったと考えてよい。国家祈願寺である摂津国の四天王寺の毘沙門天像が、手に持っていた−−王城鎮護のための−−刀と塔形などを壇の下に投げ捨ててあるのが発見された。朝廷政府はこの怪異にあわてて使者を派遣して護摩修法におよんだ。


861

 陸奥国・出羽国から国外に馬を出すことが再度禁じられた。このころ東国では浮浪人の数が増える一方で、彼らは生きる糧を求めて盗賊化しつつあり、フロンティアにはアナーキーな空気が蔓延していた。『日本三代実録』にはこの年の武蔵国のことが「兇猾【2字ルビ・きょうかつ】党をなし、群盗山に満つ」と、さながら悪人たちの巣窟のごとく書かれている。そのために中央政府は武蔵国の各郡に検非違使【4字ルビ・けびいし】(公警察権力)を配置した。「みなもと」を自称して馬をたくみに操り、白衣を着たり白旗をたてる新羅系の−−新羅花郎のような−−集団が、関東地方から中部太平洋沿岸地帯に群居し、支配体制の華風になじまず、韓神を租神とする反体制の側で抗争をくりかえしていたらしい。


862

 瀬戸内海周辺で海賊に襲撃される事件が頻発した。『三代実録』は「往還の諸人を殺害し、公私の雑物を掠奪す」と記す。備前国では官米八十石を積んだ船が襲われ、乗組員ら十一人が殺された。ヤマト政府は、播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐などの国に通達を送り、人夫を徴発して海賊を捕まえるために追跡させた。空海の門下となって長年修行を積み上人となっていたヤマトの天皇家の皇太子が、八十歳近くでありながら、精神世界の旅をするために唐の明州(現在の寧波【2字ルビ・ニンポー】)に上陸した。


863

 前年のくれから平安京周辺で疫病(インフルエンザ)が大流行し百姓が多く病没した。夏、本州島日本海沿岸の越後から越中にかけてで大地震発生。天災や疫病などを怨みを持って死んでいった人たちの霊のなせるわざと信じた人々が、そうした霊をなだめるのを目的として反権力的・反王権的な御霊会【3字ルビ・ごりょうえ】と称する集会を各地で開きはじめた。これに危機感を抱いた朝廷も、禁苑の神泉苑において一般にも解放された−−天皇以外の王侯貴族が総出で参加する前代未聞の−−大規模な御霊会を自ら主催して、人々の間で高まりつつあった不穏なガスを抜き、反逆心を愛国心に転化させようとしたが、うまくいかなかった。丹後や因幡に漂着した細羅人・新羅人に食べ物を与えて返した。


864

 山陰の石見に漂着した新羅人を追い返した。富士山が大噴火。噴火は十日以上も続き、北麓に大量の溶岩が流れ出して「せの海」を埋めた。青木ケ原樹海ができたのはこのとき。『三代実録』の駿河国サイドの記録によれば「富士郡の浅間大神山が噴火し、その勢いはなはださかんで、一、二里四方の山が焼けた。光る炎は高さ二十丈ばかり、雷が起き地震が三度あった。十日たっても火が消えることなく、熱い岩が峰を崩し、砂が雨のように降ってきて、噴煙が立ち込めて人は近づくことができない。大山の北西に本栖湖がある。焼けた石が湖に流れ込み、湖面を埋めた。長さ三十里ほど、幅三、四里ほど、高さ二、三丈ほどであった。火災はついに甲斐国との国境に達した」となる。甲斐国サイドの記録ではこれが「駿河国の大山が突然火を吹き上げ、小丘を焼き壊し、草木を焦がして、熱い土砂が流れ出した。甲斐国八代郡本栖、ならびにせの海の『両水道』がそのために埋められた。水は湯のように熱くなり、魚や亀はみな死んだ。人々の住居は湖とともに埋まり、一家全員が死んだ家もあったが、被害はまだ数えることができない」とある。この溶岩流で、現在の富士五湖のうちの西湖と精進湖が形作られた。甲斐国は、山梨と八代両郡に浅間神社を建てて山霊の機嫌をとった。九州島の阿蘇山でも神霊池が煮えたぎりはじめた。出羽国の月山神社の神に従三位下が与えられ、鳥海山の大物忌【3字ルビ・おおものいみ】神社の神は正四位上に格上げされた。


865

 上総国市原郷の俘囚三十人あまりが暴動を起こして官物を盗みとり、一般人を殺害する事件が起きた。郡兵一千人が出動して追討したが、暴徒はみな山中に逃げ込んで捕らえることができなかったという。京畿七道諸国を対象に民間が主催する御霊会【3字ルビ・ごりょうえ】が、あるいは御霊会と称してたくさんの人を集めることが、禁じられた。不平分子が多く、人々がたくさん集まると何が起こるかわからないと、政府(王権)は考えたのだった。再び山陽道と南海道の諸国に海賊追捕の命令が下された。老骨にむち打って精神世界の旅に出たもとヤマトの天皇家の皇太子が唐の都長安に到着した。


866

 過度の飲酒や宴会が禁止された。蝦夷【2字ルビ・えみし】征服の武神で軍神として中国系藤原一族に崇められていた常陸国の鹿島大神が、伊具【2字ルビ・いく】、亘理【2字ルビ・わたり】、宮城、黒川、色麻【2字ルビ・しかま】、志太【2字ルビ・した】、小田、牡鹿などそれぞれの郡にある苗裔神【3字ルビ・びょうえいしん】(子孫の神)に幣帛を奉納した。ヤマト国家の支配が北進するにつれて鹿島の苗裔神が陸奥国に多数祀られるようになっていた。出羽国の位禄の物価を陸奥斛【1字ルビ・こく】に準じた。播磨国から夷俘長五人が勝手に出境して近江国に来ているとして国司を叱責し「今後は境から出してはならない」とする命令書が下された。各地にあった俘囚のための限定居留地に生活することを余儀なくされた俘囚たちに自由などなかったことがここからもわかる。
 肥前国の郡司ら地方の権力者が共謀して新羅に渡り、新羅人に兵弩などの武器を製造する技術を教えて、対馬を奪い取ろうとした事件が発覚した。山陰道諸国と太宰府に諸国の俘夷(蝦夷)を集めて新羅からの来襲の準備をさせた。海賊の追捕をおこたっている国司が罰せられることになった。唐の長安にいた仏教徒で、もとヤマトの天皇家の皇太子が、精神世界の旅のためにインドに向けて船で出発したものの、マラッカ海峡を越えたあたりで行方不明となり消息を絶った。


867

 海賊にほとほと手を焼いていたのか、各地の国司に、国司同士がもっと連絡を取り合って対処するよう命令が下され、海賊や盗賊の鎮圧に俘囚を動員することが決められた。九州島で阿蘇山が噴火。


868

 播磨国で大地震。神官の禰宜につけるのが女性に限定された。これによってそれまでその呪術性によって禰宜の職についていた祝【1字ルビ・はふり】の民らは、呪術的仏教(密教)に取り込まれ、その結果先住民や先着民の原初的な信仰はことごとく解体されて、神社の要職などが密教サイドに独占されてしまうことになる。職を奪われた祝【1字ルビ・はふり】の民は、神社の雑役に従事することになった。


869

 陸奥国(本州島東北の太平洋沿岸)に巨大地震が発生。この地震による津波が多賀城の城下を急襲し建物などが倒壊する大きな被害が出た。死者千人を越えた。新羅からの海賊が太宰府の近くの博多津を襲い、豊前国の朝貢船から年貢絹や綿を略奪した。警備の者たちを選んで事に当たらせようとしたが、兵たちはみな軟弱で海賊を恐れて迎え撃つ気概もなかった。太宰府はあきれて俘囚を徴用したいと申し出た。この年の末に、移住させた俘囚や夷俘を九州島・筑紫国の太宰府に再配置したところ、一をもって千にあたる勇敢さであったという。太宰府、対馬、山陰道に新羅来襲に備えさせた。第一回の祇園御霊会が開催された。


870

 上総国の夷俘が民家を焼いたり、人や財物を盗んだりするので、朝廷政府の教化に従う者は手厚く哀れみをかけ、従わない者は「奥地に追い入れ」るように、上総国に命令が出された。『三代実録』は「夷種を征伐し捕虜にして中国に散居させたのは、まんがいち盗賊などが出た場合、その者たちに防御させるためだ」との天皇の言葉を記す。新羅人二十人が陸奥国に移住させられた。太宰府の官僚だった藤原元万侶【3字ルビ・もととしまろ】が新羅国王と通謀して叛乱を計画したことが、新羅からの通報で発覚し、逮捕された。子どものころから秀才だった菅原道真が二十六歳で役人に登用された。


871

 出羽国の鳥海山が噴火して周辺に大きな被害を与えた。山上から火を吹き上げ、土石を焼き、雷のような音がした。山に源を発する川は泥であふれ、泥水の色は青黒く、臭気が充満した。魚がたくさん死んで浮かび上がり、流れをせき止めた。大きな蛇が二匹、無数の小さな蛇たちを従えて海に流れていった。京の郊外の人の住めないような河原に人々が流れ込んで暮らしはじめた。河原を住み処とする最底辺の人々はこの後年々増加の一途をたどり、やがては一大集落を形成するようになる。朝廷の記録では一貫して鳥海山を「大物忌神がいます山」と呼び、大物忌神が瀬織津姫神を秘した神名であることから、本州島の先住民の信仰厚い山が怒ったとの認識があったらしい。渤海使一行が加賀国に来日し、存問渤海客使【6字ルビ・ぞんもんぼっかいきゃくし】に、若干二十七歳の菅原道真が任命されて到着地におもむくはずだったが、たまたま母の死にあってその役を辞任した。


872

 渤海使が入京し、彼らに官銭四十万が与えられ、市井人が呼び集められて珍しい文物のバザールが開かれるわ、また彼らが持ち帰ろうとした物の取引が熱をおびるやら、市中が賑わいを見せる。しかし渤海使がやってきたときにあわせたように都でへんな咳が出る病気が蔓延して死者が多数出た。渤海使が運んできた「異土の空気」が流行病の原因とされ、朝廷の建礼門の前で大祓いがおこなわれた。「異土の空気」がケガレとされたのだった。このころから蝦夷【2字ルビ・エミシ】や南島の人たちも−−大八州の境界の外はケガレた空間とするパラノイアックな見方が広まりつつあり−−同様にケガレた存在と見なされるようになっていく。


873

 陸奥国に植民した開拓者たちは周囲の蝦夷【2字ルビ・エミシ】をことのほか恐れていたらしい。この年、陸奥国の役人が中央政府に次のように申し出ている。「俘夷【2字ルビ・ふい】が境にたくさんいて、ややもすれば反乱を起こすような状態で、役人も住民も恐れおののき、まるでトラやオオカミを見るような目で夷俘たちをながめております。願わくば、武蔵の国の例にならい、五大菩薩像を造って、国分寺に安置し、蛮夷の野心をただし、役人や住民の恐怖を取り除いていただきたい」


874

 国司や郡司が百姓の子女と結婚するのが禁じられた。九州島の薩摩国で開聞岳が噴火した。


875

 京の冷泉院から出火。翌日まで延焼は続き図書や財宝が焼失した。下総国では俘囚が再度暴動を起こして、官寺を焼いたり、良民を殺略したりした。武蔵、上総、下総、下野などの国からそれぞれ三百人の兵が徴発されて鎮圧にあてられた。下野国でも叛乱を起こした捕虜八十九人が斬殺され、ひと月後には賊徒二十七人、帰降俘囚四人が殺されている。渡嶋の荒狄【2字ルビ・あらえびす】が水軍八十隻で出羽国飽海郡を襲い、農民を殺略した。渡嶋の蝦夷【2字ルビ・エミシ】が蜂起したという報告が出羽国からもたらされたので、さっそく出羽国に征討の命が下された。渡島の狄【1字ルビ・エビス】が出羽国秋田郡へ来襲した。


876

 夷俘【2字ルビ・いふ】たちが常に鹿などを殺して食べるために、正月と五月の節には、鎮守府自体が主催して夷俘たちを饗応するための盛大な狩猟をおこなった。


877

 菅原道真が朝廷お抱えの文章【2字ルビ・もんじょう】博士に就任した。三十二歳だった。作物が実らず、百姓は疲弊した。本州島東北で飢饉(ききん)、役人の税の取り立てが厳しくなり、倭人の開拓者の三分の一が奥地に逃げ込んだという。


878

 宮城の紫宸殿に、夜間、盗賊が侵入した。前年の大凶作が引き金を引いたものか、出羽国の第二国府の所在地である秋田城(秋田市高清水岡)の城下に住まう夷俘たちが、出羽月山と鳥海山の神の力を借り受けていっせいに蜂起し、秋田城や郡衙などの政府施設や城辺の民家などを襲って焼き落とした。
 出羽国の官兵六百人が俘囚兵を前面に立てて緊急出動したものの、夷俘の叛乱は−−日増しにその数を増やして−−空前の大乱に拡大し、一千名あまりの叛乱軍にふくれあがって、たちまち五百人ほどが殺害され、城下は焼け野原になった。叛乱を起こしたのは敵対関係にある狄【1字ルビ・えびす】ではなく、すでに秋田城よりの支配を受け入れてその城下に移住していた狄【1字ルビ・えびす】で、すでに納税や朝貢の関係に入っていた先住民たちだったが、その徴税があまりに酷なことに耐えかねて起こしたものとされる。またこのころ官位の高い権力者の子弟が大勢、特産の良い馬や良い鷹を求めて都からこの地にやってきて、善良なフロンティアのネイティブ・ピープルたちをだまし、安い値段でそうした特産物をこぞって手にいれることが流行していたので、そうしたことも叛乱の原因のひとつになったかもしれない。
 出羽守・藤原興世【4字ルビ・ふじわらおきよ】による政府軍全滅の報に、陸奥、上野、下野国より出羽国に計四千名の援軍派遣が命じられた。京都から藤原保則【2字ルビ・やすのり】が出羽権守に、清原令望【2字ルビ・よしもち】が出羽権掾として派遣されることになった。政府軍は秋田河左岸に砦を築き、そこを拠点として俘囚たちと戦ったが苦戦を強いられていた。蝦夷【2字ルビ・えみし】三人が秋田旧城下にやってきて政府の役人に「秋田河(雄物川)から北をわれわれの国として認めよ」と、日高見国の独立を改めて宣言した。
 秋田旧城には政府軍五千が集められていたが、こちらも叛乱俘囚軍に不意をつかれ、城を包囲されて大敗を喫し、あげくのはてに甲冑三百領、備蓄米七百石、馬千五百頭などを奪われる始末だった。小野春風が鎮守府将軍に任命され、急きょ出羽国秋田城救援に向かったものの、当然ながら救援軍の到着を待ちきれずに叛乱俘囚軍に砦を包囲された政府軍二千人が秋田河左岸の砦から逃亡した。
 ヤマトの天皇は次ぎに阿闍梨【3字ルビ・あじゃり】の寵寿【2字ルビ・ちょうじゅ】を出羽国に派遣して降伏の法を修させることにして都を送り出した。出羽国に到着した藤原保則【2字ルビ・やすのり】が常陸と武蔵両国の軍二千を派遣してくれるよう要請している。小野春風らの率いた軍が陸奥路経由で出羽に到着した。この春風は、父親が陸奥国の官人であり、若いころ辺境を旅して回ったので夷語に堪能で、彼は武器や鎧をかなぐり捨てて単身夷虜のなかに飛び込んで対話をくりかえし終戦を実現させるのに功があった。藤原保則は秋田の南側にある蝦夷村(向化俘地)のうち 添河(旭川流域)など3か村の懐柔にのりだし、 雄勝・平鹿・山本の不動穀(官米)をえさにして味方に引き入 れることに成功。朝廷側についた蝦夷(俘囚)二百余人が反乱軍に 夜襲をかけて八十人を殺している。かくして叛乱の鎮圧にあたった国守の藤原保則、将軍の小野春風らは全面的に非を認めて、停戦と現状復帰を要請した。要求が全面的に受け入れられたために、夷俘の三百人ほどが投降するなど和議帰順を希望する夷俘が続出した。例によって権力者側による反乱軍の分断作戦が功を奏した感じ。朝廷が出羽鳥海山の大物忌神社と月山神社の神の位階をさらに引き上げた。
 このころの出羽国の狄【1字ルビ・えびす】の政治地理が秋田城からの距離によって「政府与力エビス村(秋田河南向化俘地−−添河、覇別、助川の三村)」「叛乱エビス村(秋田河北賊地−−鹿角、比内、椙淵、野代、河北、脇本、方口、大河、堤、姉刀、方上、焼岡の十二村)」「去就不明遠エビス族(津軽、渡嶋)」の三地区に分類されている。渡嶋(北海道)の俘囚のチーフたち百三人が三千名の部下を率いて秋田城に来て、叛乱に加わらなかった津軽の俘囚百人あまりとともに帰順した。秋田城ではこの俘囚たちの労をねぎらって饗応がなされている。この段階でエミシたちの領土回復の最後の夢が崩壊した。
 関東諸国で大地震。武蔵、相模の二国に被害が集中した。出羽国の俘囚の叛乱が平定されたのち、清原令望はそのまま秋田城司として秋田にとどまり、土着して、出羽清原氏の祖となった。

「津軽の夷俘は其の党種多く幾千人なるを知らず。天性勇壮にして、常に習戦を事とす。若し逆賊に 速(まね)かば、その鋒当たり難し(津軽のエミシたちはさまざまな部族から構成されていてその数ははなはだ多く、みな生まれついて勇敢で戦いが得意であるために、このまま国家の敵として放っておくととてもやっかいなことになります)」
——藤原保則が常陸と武蔵両国の軍二千を派遣してくれるよう要請した上奏文の一節

879

 出羽権掾の藤原保則が叛乱した夷俘を征討したことを報告。諸国の軍士は陣を解き職を免ぜられ、それぞれの甲冑をすべて出羽に保管し、兵一千六百五十七人、烈士(志願兵)八百八十人を秋田・雄勝の両城と出羽国政府軍の三つに分けて配置して、叛乱鎮圧作戦は終了した。

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Friday, April 01, 2011

デニス・バンクス、日本への祈り 石川史江訳

デニス・バンクス、日本への祈り 石川史江訳
〜福島原子力発電所の危機的状況の中で〜

アメリカ合衆国は現在の気違いじみた原子力産業の即時操業停止を、深刻に考えなければならない。原子力が我々の手に負えないものである事を認識すべきだ。アメリカ合衆国は、現在カリフォルニア、ニューヨーク、ペンシルベニア、アメリカ南西部ロス・アラモスなどにある原子力発電所及び関連施設を、即刻調査し閉鎖する必要がある。1978年のロンゲストウォーク以来、我々は様々な所を訪れて、原子力の悪をアメリカ世論に訴え続けて来た。デザート・タートル・ロック、グランド・キャニオンなど。グランド・キャニオンでは現在、ウラニウム採掘による地下水への放射能流出が問題になっている。40年前我々は、アメリカ最大のウラニウム採掘場、ニューメキシコ州グランツにある ジャック・パイル鉱山で、採掘に反対して大きな抗議行動を行なった。そして45年、50年経た現在、警告して来た事が起こってしまった。日本の福島原子力発電所の危機的状況だ。我々は危険を予測する科学者のつもりはないが、ともかくも現在それが起こっている。アメリカはじめ世界中の国の政府、首脳が、母なる地球を管理するのは不可能な事だと認識するのは、一体いつになるのか。母なる地球からウラニウムのような鉱物を採掘して、我々の理解を超える産業を発展させようなど、無理な事なのだ。未来はある。しかしもちろん、今までとは全く違った新しい視点で、我々の暮らしを創り出さなければならない。どのように母なる地球を培い、どう培われていくか。それが始まったとしても、真の実現のためにはかなりの時間がかかるだろう。現在のアメリカ社会は、「不動産」と「お金」でがんじがらめになっているからだ。我々の地球を母なる地球として認識しよう。母なる地球は、我々に食べ物を与えてくれる。新しい次世代にとって、食べ物の自給自足は、とても大切な課題となる。巨大な企業に食料供給の管理を任せるのは、とても危険だ。巨大な食料産業は、種の管理を進めている。我々が現在反対している問題に、遺伝子組み換えのワイルド・ライスがある。ミネソタ大学では、ワイルド・ライスのDNAを取り出そうと試みている。本物のトウモロコシのためにも闘っている。工場で技術者によって作られたトウモロコシは、食料とはなるが種にはならない。植物を育てるためには、毎年別に種を買わなければならない。自然に生息するワイルド・ライスとは少し異なる。未来を担う技術者も、そして新しい時代を生きるインディアンも、何が人類にとって正当な事か、何が七世代後の子供達にとって大切な事かを考えなければならない。今日、明日の事だけでなく、我々は常に150年先を見越して、今を決定しなければならない。多くの人がその様になれば、それ自体が希望となり、素晴らしい未来が開けるだろう。
映像 http://www.youtube.com/watch?v=1_0y9N00pnw

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Sunday, March 20, 2011

ホピは日本と母なる地球のバランスを回復するための祈りへの参加を求める

Revised]10:52AM,2011/03/27

ホピは日本と母なる地球のバランスを回復するための祈りへの参加を求める


2011年3月17日

ホピは今、バランスを失ったこの世界で危機に直面した日本の人々のために、そして世界の人々のために祈っている。

現在は、誰もが母なる地球の大きな変化の時のなかにおり、今起きていることはすでにわれわれのエルダーによって以前から予言されていた。予言も、儀式も、地球のわれわれの聖なる大地が泣いていることを伝えている。そして子供たちは、彼らの未来のためにホピがいのちのバランスを回復してくれることを求めはじめている。

われわれのエルダーたちは、この幾多の変化のなかをいかに通り抜けるかについて、導きを与えてくれていた。人類は今すべてのいのちが従うことになる細い道を選びつつあり、われわれはいずれこの日が来ることを知っていた。

ホピとして、われわれは、あなたがこの仲間に加わり、母なる地球とすべてのいのちのバランスをとるための祈りの輪に加わることを求める。たくさんの祈りをとおして多くの良きハートと共に祈ることで、われわれのエルダーたちが言っていたように、この間に起きた出来事の衝撃を軽減することが出来ると信じている。

ダライ・ラマや世界の人々と共に、日本と地球とすべてのいのちのために癒しを送るための祈りに、われわれはホピとして加わる。この変化の時にあって、世界のすべての人々に、よりバランスのとれた生き方に戻ることを求める。

ホピは言う。われわれがこの変化の時を通り抜けていけるための道はあると。それは、地球を敬い、そのすべてのいのちを敬い、母なる地球の上を優しく歩くことだと。われわれのハートを未来に繋がるこの細い道の心とひとつにもう一度つなぎ直すことだと。

子供たちの未来の世代のすべてのいのちのために、庭で作物を育て、それに水を与えることで、われらの聖なるいのちを敬い、あなたのハートを母なる地球を讃えるホピに繋ぎ合わせてください。


カワク・ワ ロロマニ
(ありがとう。未来に良きことが起こりますように)


リーウェイン・ロマイェステワ
キクモングイ シュンゴパヴィ村チーフ


LeeWayne Lomayestewa
Kikmongwi, Chief of Shungopavi Village
traditionalhopi@gmail.com


revised_version_hopi_japan

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Saturday, January 29, 2011

ストーリーテリング・ストーンと教え

むかしむかし、地球がまだ若く、この世界が出来てまだ間もない頃の人々の暮らしぶりは、たいそうきついものだった。なかでも最悪だったのは、冬と呼ばれた年寄りが仲間の北風を連れてやってきて、人々の頭のうえにどっかりと座り込み、何日も何日もたくさんの雪を降り積もらした季節だった。

どんなに雪が深くても、その雪をかき分けて狩りに出かけなければ、食べるものが底をつき、一族が飢えてしまうことは、みんながわかっていた。

一族のなかにひとりのよくできた少年がいた。いつでもエルダーたちには十分すぎるほど敬意を払う若者で、心優しくて、それに常にほんとうのことを話した。ある日少年は一族のために狩りに出かけた。

狩人の腕もたいそう良く、いつでもなにかの獲物を欠かさず持ち帰った。ある日、深い雪のなかを歩いて家に帰る途中、少年は疲労感に襲われて、ちょうどそこにあったたいそう大きな岩に寄りかかるように腰をおろした。

それは少年が今までに見たこともないような形をした岩だった。まるで人間の顔というか、頭というか、地面から首が突き出しているように見えた。

「これからお前に話を聞かせてやろう」いきなり深いところからそう言う声が聞こえて、若者は飛びあがった。

誰かにからかわれているのではないかと考えて辺りを見まわしてみたのだが、周囲に人の気配はなく世界は静まりかえっていた。「そう言うあなたはどなたですか? どこにおられるのですか?」少年は声に出してたずねた。

「これからひとつ物語を話して聞かせよう」

少年はこたえた。「わかりました」

すると石がこう言った。「ならば最初になにかをもらわなくてはならない」

少年はその日の獲物である何羽かの鳥をその岩の上にのせた。すると岩が話をはじめた。

岩はまずこの地球がどのようにしてできたかの話をした。とても長い話だったけれど、引き込まれるぐらい面白かった。

長い話が終わると若者はその岩に感謝を述べた。さっそくこれから一族の所に戻り、今聞かせていただいた話をみんなに聞かせますと伝えた。そしてまた明日ここに来ますと彼は岩に話した。

雪のなかを歩いて家に帰りながら、あの岩が話をしているのを聞いているときには、まったく寒さを忘れていたことに少年は気がついた。ぜんぜん寒くはなかったのだ。雪などどこかに消えていたようにさへ思えた。

少年は家のなかに走り込んだ。晴れ晴れとした幸せな気分だった。なにごとかと一族の人たちがあまりにうれしそうな少年のまわりに集まってきた。少年はあの偉大な岩が少年に伝えた物語をみんなに話して聞かせた。

その夜は、少年の話した物語のおかげで人々は寒さを感じることもなく、幸福感に包まれて寝床に入り、よい夢を見ることができた。

翌日、若者はまた別の獲物の鳥たちを持ってあの岩のところにおもむいた。岩はまた別の話をして聞かせてくれた。その日の話もたとえようもなく素晴らしく心躍る話だった。

そうやって来る日も来る日も、どんなに寒い雪が降り積もり、冷たい風が肌を切りつけるように吹いても、若者はあの岩のところに通い続け、たくさんの素晴らしく面白い話に耳を傾け続けた。

岩の話した物語はただ人々を楽しませることだけが目的のお話ではなかった。それは正しい生き方を伝え、どのように生きていけばよいかを伝えるきわめて一族にとって大切なお話ばかりだった。

春が訪れたある日、若者はいつものように獲物を持って岩のところに行った。しかし、岩はもう何も話をしなかった。

若者は話をしてくださいと岩に語りかけた。「どうしてお話しを聞かせてくださらないのですか?」すると岩がこたえた。

「私は自分の知っている話はすべてお前さんに話して聞かせた。それをしたのは、お前さんに物語をおぼえさせ、一族の者たちに語ってきかせてもらうためだった。お前さんがそれらの話を心に焼きつけ、次の世代、次の次の世代と共有することができるなら、人々はこれからもずっと正しい生き方を忘れるようなことはないだろう。お前がその生き方を続けておれば、物語は向こうからやって来るだろう。それを又、みなと分けあうがよい。そうすればすべての人が正しい生き方のことを知り、心に焼きつけるだろう」

若者は自分の知った物語のすべてを人々と分けあった。話を聞いた人たちは幸福感を味わい、誰もが彼に感謝をした。そして次に自分から話をしはじめたものは、みな等しく善なるものを知り、善なるものとともに生きたという。

おしまい。


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Monday, January 24, 2011

放射能はナバホの人たちの大地と人をどう変えてしまうのか


blighted_homeland_ad

上の画像をクリックするとナバホの大地を放射能が汚染している現
実がLAタイムズの製作になるスライドショーで見ることができます





*メデイアストームというプロダクションが制作したこの作品をとおして、ナバホの人たちのそれでもなお美しすぎる赤い大地と、そこに生活しながら目に見えない放射能汚染に苦しむ人たちの生々しい姿と声を聞くことができるだろう。今ナバホの大地でなにが起きつつあるのかを、世界は知るべきだし、この人たちの苦しみに終止符を打つために早急に手を打つべきであると誰もが感じることができるはずだ。

北山耕平

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Wednesday, December 22, 2010

ネイティブなクリスマスを!

native snowman

父なる大空の ために
雷のやって来る 西へ
白い雪のやって来る 北へ
赤い日の出のやって来る 東へ

新しいいのちのやってくる 南へ
母なる地球の ために

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Tuesday, December 14, 2010

自分が誰かを勉強したくなったら



 
ネイティブピープルについて学びたいのですが
よい本を教えてください。




ショップ・ネイティブ・ハートを観てください


*ほぼ毎週更新!

面白い本、ためになる本、
自立して生きていくための本、
魂を癒す音楽、
自分を育てるための本や道具
北山耕平の旅の記録として
すべて選びました200点以上!




*ご注意 このリンクの先はオンライン書店のアマゾンになります。もしアマゾンで購入することを良しとしないあなたであるなら、別のところで本を探すときのデータベースとしておつかいください。アマゾンのサイトにぶら下がっている古書店を利用することもできます。アフリエイトによる収益は北山耕平の活動資金の一部になります。

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Friday, September 03, 2010

トンボから日本人とアメリカインディアンのことを考える

Dragonflyアメリカインディアンと我々に共通するもののひとつにトンボにたいするよく似たイメージというのがある。

古代に、九州から大和地方に侵攻した神武天皇が新しい土地を一望して「やまとはなお あきつのとなめせるがごとし」と言ったことから、日本のことは「蜻蛉島(あきつしま)」と呼ばれたされている。「となめ」というのは「臀舐め」と書いて飛びながら交尾をすることだし、「蜻蛉」「秋津」「アキツ」というのは「トンボ」のことだ。トンボが飛びながらセックスをする姿と国土がどのように似ていたのかイメージはつかみにくい。言えるのはその頃からたくさんのトンボたちがここでは群舞していたと言うことだ。

先日信州の友からのメールで田んぼに赤とんぼがたくさん飛びはじめたと伝えられた。8月に安曇野で風をひらいた際にも、沼のまわりを赤とんぼではなかったけれどトンボたちが群れをなして飛んでいた。日本列島がトンボの島々であるという認識は、間違いのない事実であり、それはとりもなおさず日本列島にはきれいな水がたくさんあるところを意味している。

日本列島でもトンボは、前にしか進まないところから古代から江戸時代まで勇気と力をもたらす縁起物とされてきたが、なぜかそこには水のありがたさは出てこない。それにトンボは前にしか進まないというのは観察する能力にもやや欠ける分析ではないか。トンボは、四枚の羽根をばらばらに動かすことで、ホバリングもできるし、前を向いたまま後ろに向かって空中を移動することもできる地球最強の捕食者である。トンボと水の関係が伝えられていないのは、あたりまえに水がたくさんあったからかもしれない。

ウィキペディアの日本語版には世界にはおよそ5000種類のトンボがいて、日本列島にはそのうちの200種類が分布すると書いてある。アメリカのトンボの研究家によれば4950種以上の種類が地球にはいて、北米大陸には450種類が分布しているそうだ。

Dragonflyトンボは北半球の多くのネイティブピープルにとてもありがたいものと見られてきた。ありがたさは、トンボが飛んでいるところの近くには水が存在することに最大の理由があった。北部大平原諸族の中でも、シャイアンとラコタを研究したピーター・J・ダーキンは、このふたつのトライブの人たちが、トンボや蝶々に与えられている意味の広さに着目して論文を書いている。とりわけシャイアンの人たちがトンボを昆虫と認識していないことをとりあげた。

彼らの宇宙観の中では、変態し孵化するトンボも蝶々も「鳥の仲間」と分類わけされていた。最強の捕食者として空中を自在に飛び回り水辺でとりわけ蚊を見つけてこれを捕まえて食べるトンボ。シャイアンの人たちはトンボの群れをなして飛ぶ姿に宗教的な意味を見いだした。トンボの群れは人びとにとってもよいものであり、しばしば敵が近づいていることを警告してくれたり、旅を続けるのによい方角を指し示してくれたりしたという。

平原諸族の戦士たちの多くが自らの身をトンボをイメージして飾っていたことはよく知られている。トンボは身の動きが速く、なかなか捕まりにくく、めったに殺されないだけでなく、地面すれすれを飛ぶときには自らの姿をかき消すかのように羽ばたきによって土ぼこりを巻きあげたりするわざが尊敬されたのだ。災いから身を守るシンボルとしてトンボは使われ、自分たちの乗る馬にもトンボの模様が描き込まれた。ラコタの人たちは、トンボにはあらゆる危険を避ける力が授けられると認識していた。人間も動物も、雷すらも、トンボを撃つことはできないと。

まず、このような「トンボについての知識」は、あるいは他のどんな動物についての知識も、ネイティブの人たちは「それを獲得し得た人の財産」として考えていたようだ。だから特別な相手でなければそれを披露したりはしないものだった。

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Wednesday, September 01, 2010

風をひらく workshop with “Full Harvest Moon” お知らせ

organicnight

超五感cafe&gallery PANGAEA(仙台)主催
【オーガニックナイトvol.9 】

風をひらく workshop

with “Full Harvest Moon”


秋分の日 満月 中秋の名月

ワークショップ&お話 / 北山 耕平

世界を深く理解するための伝統的な耳の訓練法

時間 14:30~
料金 4000円食事代込み
定員 25名 要予約
予約 info@pangaea-sendai.com
※18時からのお話会だけの参加も大丈夫です。(ドネーション制)

会場 うつくし森(たぬき茶屋)
場所 宮城県仙台市青葉区芋沢字二尺木36-2
TEL 022-394-2949 携帯 090-2275-4546
最寄り駅 陸前白沢駅(会場まで歩いて行けます。)

「風をひらく」はネイティブ・アメリカンによつて考案されたものですが、伝統的な儀式ではありません。それはあなたの耳の状態を「地球に生きる人の通常の耳の状態に近づける」ための誰にでも出来るトレーニングを学ぶもので、自然を理解するための最初のステップとなるものです。

みなさんの耳が自然の話を聞ける状態になったら、焚き火でも囲んで、夜遅くまで話しをしましょう。

※あらかじめ汚れても良い衣服とハイキングに適したシューズで参加ください。
※イべント中のアルコールは禁止。
※希望者はバンガローにて宿泊出来ます。(別途料金)
※雨天決行ですが雨天の場合は内容に変更があることをご了承ください。

当日の予定
14:30 集合
15:00~「風をひらく」ワークショップ
17:00~ 軽いお食事
18:00~ 満月の下で焚き火を囲んでのお話会
(多少時間は前後することがあります。)

詳細は→http://pangaea-sendai.com/pickup_new/?p=447

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Tuesday, August 31, 2010

1,947 Ninteen Forty Seven  昭和22年 分かれ目の年

(以下は「ネイティブ・タイム」の最新版から1947年のところを取りだしたものである。2001年に単行本となった「ネイティブ・タイム」よりもかなり情報量が増えている。1500ページを超えてしまうので出版社では本にしてくれそうもないので、近いうちに増補改訂版をデジタルバージョンで提供したいと考えています。 北山耕平) 

beadturtle


1,947

 アメリカ主導の農地改革により地主階級が解体された。この後四年間で政府によって約二百五十万人の旧地主から農地が買い上げられ(取り上げられ)、約四百二十万人の旧小作人が国から売り渡しを受けた。しかしこの農地改革は、土地所有権中心主義のこの国の土地についてのシステムや意識を本質的に変革することはなかった。なぜなら、史上はじめて地主となった旧小作農民−−百姓−−ははじめから耕作権としての土地所有権と商品的土地としての土地所有権の二重性を持った土地を所有することになったのだから。

 北海道アイヌ協会が、給与地の農地改革法適用除外を道庁と政府に求めるも不許可とされた。GHQ第九軍団司令部のジョセフ・スイング少将がアイヌの長老四人に「独立する意志があるかないか、独立するなら機会は今しかないですよ」と打診。四人はその打診を断っている。少将は「今、独立しないで、あとで日本人とけんかするようなことは絶対にしないように」と伝えた。アメリカのCIAがLSDを武器として使うための潜在的な可能性を求めて実験を開始。

 日本国憲法が施行され、第二次世界大戦までの「国体」なるものは「象徴天皇制」というふうに言葉が置き換えられて、民主主義に基づく天皇制にその姿を変えていた。日本を共産主義の「防波堤」とするために天皇制を残した憲法一条と軍国主義を排除した憲法九条が取引として同時に成立、天皇制の防衛を目的として天皇は占領軍指揮官と何度も会見した。「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」「米国による沖縄占領は共産主義の影響を懸念する日本国民の賛同も得られる」と天皇はアメリカに伝えた。シルクハットにモーニング姿へと装束を改めた古代国家(旧日本帝国・大和朝廷)が、そのまま近代に出現したといっていいかもしれない。共産主義の脅威で頭がいっぱいだったアメリカは、とにかく扱いやすい権力者を日本に必要としていたし、新しくなるふりをきめこむ日本(旧日本帝国・大和朝廷)の政府外務省は、象徴天皇制を維持するためには「アングロサクソンとは二度と喧嘩はしない」と、かたく誓っていた。アメリカの原子力委員会が資金を出して日本国に原爆障害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission)がつくられた。被爆者を呼び出してモルモットのように検査するだけで、治療はおこなわれなかった。

 生活保護法が制定され、「北海道旧土人保護法」にあった疾病者、傷痍者の医療保護、就学資金、住宅改良資金の給付が廃止となった。この時点で「旧土人保護法」の実体は消失していた。「北海道旧土人保護法」第四回改正法が公布され、これにより地租、地方税および登録税の免税特権が廃止された。北海道知事選挙にアイヌの佐茂菊蔵が、北海道議会議員選挙にアイヌの小川佐助が立候補し、両者とも落選したが、佐茂菊蔵は一万一千票を獲得した。

 ユーラシア大陸東北部のシベリアのツンドラ地帯に巨大な隕石が落下。長野県の浅間山が噴火し、登山者二十人ほどが死んだ。北米大陸で旱魃。栄養不良と飢えが北米先住民のうえに降り掛かった。アメリカ原子力委員会が放射性物質の人体への影響の調査を開始した。このころ日本人は平均千三百カロリーの食事で、ドイツ人は平均千五百カロリーの食事で、いわゆる「アメリカ人」は三千四百五十カロリーの食事で生活していたが、ナバホを例にとると平均千二百カロリーの食事だった。アメリカの大統領がショショーニ一族の代表に軍事基地にするので彼ら一族の土地のほんの一部を使いたいと申し出た。この土地は四年後には核実験場となる。

 ホピ族のコヨーテ氏族のキクモングイ(長)が「天から灰のつまったヒョウタンが落ち、海を煮えたぎらせ、大地を焼き、それに続く何年も植物が育たない」ことが起こるまで秘密にするように指示されていた教えと預言をホピの他の指導者たちにはじめてあきらかにした。その後、ホピの国で「コヨーテが話すまでは語るな」と指示されていたという教えがつぎつぎとあきらかにされた。


「そこまであなたが戦争に反対していたなら、なぜマイクの前に立ち、その旨を宣言しなかったのか?」
「歴代の天皇で、側近の意見に反して行動した者はいません。1941年の時点で、もし私がそんな行動を取れば、間違いなく首をかき切られていました」 ——この年に占領軍司令官マッカーサーと日本の天皇とのあいだで交わされた会話の一節

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Thursday, July 22, 2010

8月に福島県でするストーリーテリングのイベントのおしらせ

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Friday, July 09, 2010

「風をひらく」とはなにをするのですか?

「風をひらく」とはどんなことをするのという質問に答えます。風をひらくというのは、アメリカインディアンの儀式ではありません。それはぼくが彼らから学んだ耳の訓練法です。

アメリカインディアンの世界ではしばしば、すべては聞くことからはじまるといわれます。自然から離れた現代的な暮らしでは、人は自分の聞きたい音だけを聞いているので、聞くレベルがかなり低下しています。本来われわれに備わっている自然の音のすべてを聴ける状態に、耳をチューニングする必要があります。

自然に囲まれたなかで生活をしていたネイティブの人たちは、一日24時間をそうした耳の状態で生活していました。彼らが風の声を聞いたり、草や花と話しをしたり、蝶々やハチの話しあったり、自然界の危険が迫っているのを速く察知したり出来たのは、その耳のおかげもありました。

ear自然の声を聞き、そのメッセージを理解するには、耳を人間本来の状態に戻しておく必要があります。自然は基本的に大声でものをいいません。それはささやくように語りかけます。このささやきを聞き取るには、地球に生きる人間が本来持っていた耳の状態まで能力を回復しておかなくてはなりません。

風のひらきかたを自分のものにすることはどなたにでも出来ます。基本的にはひとりでときどき自分の場所で続けていくことで、今まで聞こえなかったものが聞こえるようになるはずです。ワークショップでは、自然に近いところでそのやり方と考え方を学びます。

その際、地面に座ったり、樹に寄りかかることがあるかもしれませんので、多少汚れてもいい服装で参加してください。ワークショップの間は、音の出る腕時計や携帯電話、iPod などは禁止されます。みなさんの耳が自然の話を聞ける状態になったら、焚き火でも囲んで、夜遅くまで話しをしましょう。

風をひらく+お話し in 上関町田ノ浦海岸 2011年6月25日(土)13:00〜日没

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Sunday, June 06, 2010

風をひらく+お話し in 安曇野ネイティブLIFE おしらせ

azuminonativelife


定員に達したために受け付けは終了させて頂きました。
ありがとうございました。7月15日。

「風をひらく」とはなにをするのですか?

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Monday, May 24, 2010

World Peace & Prayer Day 2010


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Monday, May 17, 2010

朝日カルチャーセンター 講座 地球の声に耳をすます お知らせ

地球の声に耳をすます

作家・翻訳家 北山 耕平


6/5 土曜日・時間・回数
6月第1週 土 18:00-20:00  全1回

受講料  6月(1回) 会員 2,940円
               一般 3,570円
教材費 - 設備維持費 -
講座内容

今必要なのは未来の世代を思い、大地とつながって生きること。ネイティブ・アメリカンほか先住民の生き方や祈りの言葉を頼りに、現代社会で実践できることを静かに考えます。

講師紹介
北山 耕平(キタヤマ コウヘイ)
神奈川県生まれ。作家、翻訳家、編集者。大学在学中より『宝島』『ポパイ』などの雑誌の創刊に参加後、70年代後半から80年代にかけて北米大陸無宿をして過ごし、ネイティブ・アメリカンのメディスンマンとの出会いをきっかけに、彼らの精神や暮らしぶり、物語や現実を日本の次の世代に伝え、日本のネイティブ・スピリットの根っこを掘り返すワークを開始して現在に至る。代表作『自然のレッスン』『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』、編・訳書に『虹の戦士』『時の輪』などがある

備考
 ☆この講座の教室は新宿住友ビル4階です。

お申し込みサイト http://www.asahiculture-shinjuku.com/LES/detail.asp?CNO=66939&userflg=0

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重油の流出と祖母である地球の出血

チーフ・アーボル・ルッキングホース(Chief Arvol Looking Horse):

重油の流出と祖母である地球の出血


チーフ・アーボル・ルッキングホース:至急
全世界の宗教家、精神的リーダーへ


私の親族であるみなさん、

時はきました。我々は国々のハートとその指導者に話しかけます。私はあなた方の国々のスピリットが祈りに集うことを心の底から求めます。

亀の島のハートから、我々は世界にむけて偉大なメッセージをあずかっていいます。我々はすべての白い動物たちからの声に導かれて話します。白い動物たちは一切の聖なる生命のためにわれわれが祈るときであることを、その白い色で指し示しています。私があなたにこのメッセージを届けるのは、たくさんの動物たちの国が絶滅の危機に瀕しているからにほかなりません。水のなかを泳ぐもの、地をはうもの、空を飛ぶもの、根を持つもの、そうしたいのちを持つすべての生きものたちの国が、メキシコ湾に流れ出し続ける原油による禍の影響を受けることになるでしょう。

今この時点で我々が直面しているのは、スピリットの危機だけではないのです。原油の流出によって引き起こされつつある大惨事は、祖母である地球が、あってはならない人間の誤ち、すぐに手を打たなければたいへんなことになる誤ちによって血を流し続けているようにも見えます。

精神的指導者のひとりとして、私は求めます。我々は共に祈りのうちに、地球のコミュニティーの全体と手をつなぎましょう。我々の先祖がそれぞれの予言のなかで警告したもののドミノ効果として、この深刻な問題がさらに悪化しつつ続くのではないかと、わたしは危惧しています。

何百万人もの人々が、私たちの祖母地球のために私たちの祈りをつなぎあわせるのはとうに期限切れであると感じていることを、わたしは心で知っています。スピリチュアルな人間たちがひとつに集まり思いや祈りに焦点を合わすことで、地球に押しつけられてきたたくさんの傷を癒すことが可能になると、わたしは信じます。私たちが生命の輪を讃え、祖母である地球、私たちが「ウチ・マカ」と呼ぶ存在を癒すことを支援するための地球的な祈りの輪を、呼びかけたいと思います。

私たちは、原油流出のための、この出血が止まるための祈りを求めます。作業をはかどらせるために風を収める祈りを求めます。この誤ちを修復するために人びとが導かれるように祈ってください。そしてまた私たちが調和のうちに生きることを求め、私たちが進んでいる破壊の道の道筋を変える選択をするように祈りましょう。

私たちは祈ることで、私たちみながつながりあっていることを十分に理解するでしょう。私たちが作り出したものが、すべてのいのちにたいしていつまでも影響を与え続けることを理解するでしょう。

ですから我々はスピリチュアルにつながりあいましょう。すべての国々も、あらゆる信仰も、ひとつの祈りのなかにつながりましょう。そのようにして起こる祈りが、6月21日のせかいへいわといのりの日に、世界の聖地を讃える日につながることを忘れないでください。自然のなかであれ、寺院の中であれ、教会の中であれ、シナゴーグの中であれ、あなたにとっての聖なる空間の中であれ、すべての命のために祈りを捧げようではありませんか。私たちの国々がよい選択をするように、子どもたちの未来と健康のために、そしてこれから生まれてくる世代のために。


Onipikte(そのようにして我々は生きるだろう)、

チーフ・アーボル・ルッキングホース
神聖なホワイトバッファローカーフパイプ19代のキーパー
www.Wolakota.org

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Saturday, April 03, 2010

わたしにつながるすべてのみなさまへ

mazeNative Heart におこしいただいてありがとうございます。友だちになるには時間がかかると言われています。私のことを知っていただくためにはこのサイトのなかを歩き回っていただくことが一番です。このサイトのなかにはたくさんのお話しや歌や言葉が貯蔵されています。願わくばあなたがこのサイトの奥深くまでを探索され、あなたの心になにかをもたらすものと出会えんことを。また北山耕平の今と出合うためにはTwitterをはじめるか、ツイログの以下のサイトをご覧ください。またサイドバーにある「Shop Native Heart」はアマゾンの中に小生が設置したアフリエイトサイトで、ネイティブ・ピープル関連の本や写真集や絵本やネイティブアメリカンの音楽、地に着いた生き方、日本列島の歴史を調べたりするのにふさわしいと小生がお勧めするものたちのカタログです。ご活用たまわらんことを!



Shop Native Heart
Slected Calendar with spirit 2011


*なお小生のtweetsをフォローされますと、TrueTwit というサービスからあなたのところにダイレクトメッセージが一度だけ届きます。

「smilingcloud uses TrueTwit validation service. Please follow this link to validate your profile. http://truetwit.com/###########」

と記されています。これは自分をフォローしてくださる方がただ情報を収集するためのロボット(スパムメールに利用するのが目的の一つ)かどうかをチェックするシステムです。アドレスをクリックしてもしなくても、二度と同じところからメールの送信はありません。ご不便をおかけしますが、ご了解ください。

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Wednesday, March 17, 2010

イベント「ネイティブスピリット」のお知らせ

急な話ですが、3月20日と21日に大阪でおこなわれる「ネイティブスピリット」というイベントのお知らせです。ぼくも参加しますが、ぼくが大阪に行けるのは21日になります。ぼくが加わるイベントはふたつに分かれていて、ひとつは大阪にある「ベストセラーは取り扱わない」と宣言するスタンダードブックストアという書店での「地球のレッスン」刊行記念トークとサイン会、そして21日の夜のお話会です。なんというか「地球のレッスン」はベストセラーにならないと宣言された雰囲気もありますが(\(^O^)/)、ぼくはこの本はゆっくりと時間をかけて心ある人のところに広まればいいと考えています。

以下にイベント主催者からの呼びかけです。


ネイティブスピリットを探して

In Search of Native Spirit

kachina_spirit

ネイティブアメリカン(インディアン)の精神に触れて、その歴史や言葉を知ることで、何か見えてくる世界があるんじゃないか。忘れてきたもの、置いてきたもの、目にもとめていなかったもの、そういった些細な物の中にこそ真実は存在するのではないでしょうか。

イベント「ネイティブスピリット」では、20日春分の日土曜日、21日日曜日と2日間、ダンス、短編演劇、ディジュリドゥやカホンなどの民族楽器、朗読パフォーマンス、アート等、様々なプログラムをご用意しています。

更に、21日には、スタンダードブックストアにて13時半から宝島やポパイの創刊をされた編集者の北山耕平さんをお呼びしてのトークイベント、その後こちらに来ていただいてネイティブアメリカンについてトークショーを予定しています。

日常の中の非日常的空間を是非お楽しみ下さい。

● at コスモポリタ

「ネイティブスピリット」

3月20日、3月21日
18時スタート
1DAY ¥2000(1drink)
2DAY ¥3000(2drink)

Native Spirit vol.2 at COSMOPOLITA
大阪市中央区心斎橋筋1-5-7グルメビルCENA二階COSMOPOLITA
06-4963-2700


● at スタンダードブックストア

「北山耕平トークショー&サイン会地球に生きる普通の人になるには」
http://www.standardbookstore.com/archives/65586527.html

3月21日13時半スタート
参加費無料(地球のレッスン、自然のレッスンいずれかお持ちの方のみ)

事前に電話予約お願いします。

大阪市中央区西心斎橋2-2-12
06-6484-2239

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Wednesday, March 10, 2010

チペア一族 夢見 雷の歌


thunders


チペア一族 夢見 雷の歌


風 に 運 ば れ て

大 空 を 渡 り な が ら

と き ど き お の れ を

哀 れ み た く な る

わ れ は


"Song of the Thunders", Chippewa dream-vision
From "The Path on the Rainbow", 1918 by George W. Cronyn.
Japanese Translation by Kitayama kohei, 2010.

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Wednesday, February 10, 2010

アニシナベ一族 夢歌 ドリーム・ソングス


sky


アニシナベ一族 夢歌 1 ドリーム・ソング


晴 れ 渡 る 空 が

愛 す る も の は

わ た し の 歌 声


アニシナベ一族 夢歌 2 ドリーム・ソング


大 き な 鳥 を

頭 上 に 従 え

わ た し は 空 を

歩 い て い る


"Dream Song" from Vizenor, Gerald."Anishinabe Nagamon."
Nodin Press, Minnesota, 1965.
Japanese Translation by Kitayama kohei, 2010.

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Tuesday, February 09, 2010

ピマ一族 熊歌 ベア・ソング


Bear


ピマ一族 熊歌 ベア・ソング


わたしは 黒熊 体のまわりで

雲が 渦巻いてる

わたしは 黒熊 体のまわりに

露が したたり落ちる


"Bear Song" from Russell, Frank."Pima Indians."
Eleventh Annual Report of the Bureau of American Anthology,
1889-90. Washington, D.C,: Government Printing Office, 1903.
Japanese Translation by Kitayama kohei, 2010.

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«ヤキ一族 愛の歌